決着の決塔 【デッドエンド(前半)】
悪い怪物。「お前を奪う。名誉も、栄光も、未来も、過去も、全てだ。そして、私は私にとっての勝利を得るのだ。たった一人の人間によって世界は容易く形を変えるのだから」
善き女。「なんて恐ろしいことを! たった一体の魔物が何かを決め、何かを為し、世界の行く末を左右するなど! 貴方は世界よりも重くはない、そんな当然のことも貴方の目には見えないのですか!」
悪い怪物。「私の目には私にひれ伏す者どもだけが映り、他はみな無残なしかばねとなるのみだ。他者など軽い。お前は私よりも軽い。なるほど、私の考え違いだったようだ。お前は世に語られるほど偉大ではない。ならば用はない。とくと失せるがいい」
善い女。「貴方は。何も、大切なことがわからないのですね」
悪い怪物。「大切なことがわからないのはお前だろう?」
〔勇者と魔王のジョーク集 【囚われの聖女と怪物】より抜粋〕
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速報約治・ニュースサイト 1000/1/2 17:57
灰原鏡夜とは何者なのか?
決着の塔挑戦者として突如現れ、そして常識外れの快進撃を続けている人物がいる。彼は、先日クエスト『カーテンコール』を打倒し、そして、当記事を書いた当日に――数日も経っていない! ――第一階層を、さらに第三勢力【Q‐z】が差し向けた新たなロボット(名称不明、塔関係者が攻略スピードに追い付けていない証左だと考えられる)を討伐して攻略したと確認が取れた。
彼――灰原鏡夜とは何者なのか?
そして、タイトルの問いは誰に発するべきなのか。
そもそも本人に直撃できないのが、かなりの問題である。彼の所在地である絢爛の森は徹底した保護区域であり――絢爛の森管理人である不語桃音は依然として沈黙を貫いている。というより、不語桃音は沈黙の呪い(神代の、だ!)を受けているので、突撃しても何も得られないだろう。
では、決着の塔攻略支援ドーム(長い名前だ、略称くらいつけていないのか)が答えられるのだろうか。
筆者は取材を申し込み、快く引き受けてはくれた。とても丁寧に対応してくれた――が、残念ながら私は四時間ほど粘りに粘ることになってしまった。迷惑をかけてしまったと謝罪したいが、当然受け入れられなかったのだ。
国際関係及び種族として信任を受けた、契国政府が、まるで灰原鏡夜氏を把握していないなど!
完全な謎の人物、それが結論だ。。足跡すらない。本当にそんな人間がいるのかとすら思ったほどだ。当然人間体の祝福及び呪詛の方面も調べたが、人間体の呪詛に適正がある一人の冒険者は、灰原鏡夜と別人なのは確認している。
決着の塔の挑戦者は信頼性の高い存在がなるはずなのに、逆説になってしまっている。決着の塔の挑戦者になったことによって、胡散臭い、身元も知れぬ人物が信頼性の高い存在となっているのだ。
明らかにおかしいにも拘わらず、さらにとてつもない懸念が重なる。
クエスト『カーテンコール』を誰も倒せず、倒せたのは灰原鏡夜率いるパーティである。
であるのならば単純な帰結としてもっとも強い彼が! 決着を手に入れる可能性が高いのではないか。
我々は代表を送り出したのであって、灰原鏡夜氏の願いを叶えるために灰原鏡夜氏を送り出したわけではないのだ。
国家関係者及び塔攻略関係者、そして何より灰原鏡夜―――灰原鏡夜氏自身が、己の来歴及び願いを、きちんと説明すべきである。
決着とはすなわち世界を改変するもっとも大きなものなのだから。
関係各所には、取材した当日に、急いで本記事を書き上げ発表した意味を考えてほしい。
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追記:本記事は急速に拡散した。灰原鏡夜一行が、第一階層を凄まじい速度で踏破し、大獅子とクエスチョン『パレード』(取材により確定)を攻略した夜には、驚くほどのコメントと反応があった。勢いの強さから考えるに――当然の帰結ではあるが、世界へ広がるのは時間の問題だろう。
民意が決着の塔攻略支援ドームおよび灰原鏡夜氏を動かすことを期待する。
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桃音が楽しそう――鏡夜の勝手なイメージ――にラップトップPCを持ってきて、鏡夜へ向けた画面には、以上のようなことが書かれていた。
そして、ニュース記事を読んだ鏡夜の反応は。
(ド、正論だぁ)
まず思ったのが納得である。根拠が少し乏しいのは書いてある通り、急いで書き上げたからだろう。
強いメッセージ性こそあるが、非常に客観的かつ論理的である。と、評価を下して良いだろう、と鏡夜は分析する。
これはとても良い社説である――。
「何様のつもりなのかしら! 我が君よりも尊者……偉い人なんて一人もいないでしょうに!」
「権威云々は時代遅れな考え方ですよ、かぐやさん」
鏡夜は自信に権威などないと確信している。
「すごく大事だと思うんだけど、そんなのも変わってるの? 市民様とかになってるとか?」
「語弊がある気もしますが」
鏡夜の言葉にかぐやは天を仰いだ。大袈裟な。そんな悪い話ではないだろう。
千年前、神がいたらしく、信仰と生命操作技術が両立していた時に製造されたかぐやは、現代の倫理観と少しずれている。鏡夜は千年前からも、現代からも、この世界の価値感からも絶対的にズレているのだが。
……偉さなどは置いておいて、しかしツッコミどころがないでもない。
前提として、代表制度自体が欺瞞だ。
人類という団体はどこにいるのか。人外という団体はどこにいるのか。勇者は、伝承ルールから代表となり、英雄はダンジョンの攻略数が一番多いから選ばれた。聖女が望郷教会のトップであるから代表となったのなら――きっと魔王も同じだろう。民主的に代表が選ばれてなどいない。。少なくとも、やっとこさ、この世界のことを理解しはじめた鏡夜には欺瞞がわかる。
が、指摘してはならないのだろう。天照使は戦争を吹き飛ばす。一切合切を殺しつくす。ただでさえ代表が競っているのだ――人類人外論を掘り下げて、対立をヒートアップさせるのは避けたいのだろう。
「そうじゃなくてもヒートアップはしてるんですがー」
鏡夜はニュースサイトのコメント欄を読む。凄まじい数と長文短文ジョーク塗れだ。専門用語とスラングが飛び交っていて――しかも異世界特有の――目に余る。言語理解能力があると言っても無責任に言葉がとっちらかっては意味を捉えるのも一苦労だ。
ざっと眺めた限りだと――好悪以前に、まず困惑が多かった。灰原鏡夜が何者なのか、、正体不明のH・Kへどう対応していいかわからない、多くの意見はそう語る。故にこそ、社説への共感が強く、説明を願う要望が切実に溢れている。
しかし、説明義務か――。
灰原鏡夜は自分が記者会見を開いているシーンを想像する。パシャパシャとカメラのフラッシュがたかれ、両隣にはなぜか正装した白百合華澄と不語桃音、後ろには秘書らしき格好をしたかぐや。鏡夜は表情を悲痛に歪ませながら、こう言うわけだ。
『私はァ! 服を脱ぐため! 一生懸命に努力し、最善を尽くしております! 人類も人外もあなた方も本当にまったくどーでもよいですが、どうかご支援のほどよろしくおねがいしますね?』
沈黙。そして記者会見会場は怒号に包まれ、缶とかトマトなどを投げつけられる。びしゃぐちゃに汚れる自分と仲間を想像して――。
(よし、無理だな)
もう一度、思う。ド正論だ。――まさしく、最悪の異物と言ってよいのだろう、己は。
「―――そもそもの話」
鏡夜はラップトップPCの画面を閉じて、隣で鏡夜の反応を覗き込む不語桃音と、反対側の隣でほわほわと笑っているかぐやへ言った。。
「異世界人が世界の命運を左右するなど、まさしく理不尽に他ならないんですよ。理不尽な災害です、不条理な災難です。……空からいきなり降ってくるー、世界を滅ぼす恐怖の大魔王と、一体何が変わらないと言うのでしょう? 世界の常識や倫理など何も知らない、力だけがある存在が自分勝手な思考と思想で行動するなんて、想像するだけ恐ろしい」
一般人の視点、弱者の考え。鏡夜は、大多数の論理を理解できる。力のごり押しなど、鏡夜は嫌いな部類でしかない。
一息置いて、鏡夜は二人に笑いかける。
「そして、それを全て理解した上で。私は私の目的も行動も変えるつもりはないわけです。だから、私の答えは、沈黙です。……くくっ、桃音さんと同じですねぇ?」
桃音は、無表情のまま、ゆっくりと、じっくりと、遅く瞬きをする。
世間に対しては沈黙を貫こう。世の中のコイツ正気か? っていう沈黙を貫く人物たちの気持ちを理解した鏡夜である。理解したくなかった。鏡夜は弱さを肯定的に捉える人物だが、沈黙を肯定的に捉えると人として駄目になった気がする。
「まれびと……異世界人とか初めて聞いたんですけど、我が君」
「内緒ですよー?」
「どれくらい内緒か聞いてもいい?」
「私の許しがないと言っちゃいけないくらいですかね」
「……ところで異世界って、具体的にどこ? 何かこう、巨大な、隠れた、封鎖された異界の郷出身とか?」
「こう、ちゃんと聞かれると答えづらいですね、その質問。私もわからないんですが……たぶん宇宙とか次元が違うのでは」
「我が君、ファンタジーなのね」
「私がファンタジーでもリアルでもやることは変わりませんがね」
そうだ。目的や行動を変えるつもりがない。まるでない。一切ない。今何より感じている、身体を縛り付けている、呪われている苦痛は苦痛でしかない。どれだけ言葉で飾ろうが言い換えようが、ほかならぬ灰原鏡夜が幸せになれない――不幸なままだ。
そして人類や人外のために代表となる存在はいても、灰原鏡夜のために立ち上がる存在は、灰原鏡夜しかいない。
そんな極めて卑近で俗で自分勝手なロジックが――灰原鏡夜である。
「さて、もう寝ましょうか。明日は第二階層です。早く、呪いを解かないと――」
鏡夜は立ち上がると、自室へ引っ込む。足を止めている暇はない。
桃音は、ラップトップPCを持ち上げると、両手で抱きしめるようにする。そして座ったまま鏡夜が閉めた彼の部屋のドアを凝視していた
「不語桃音? 手を放してくださらないかしら? 女官型ロボットですもの我が君の部屋に控えないと――がうりきッ!」
〈1000年1月3日 午前〉
鏡夜は鈴が鳴るような音で目が覚めた。ぼーっと天井を眺めている鏡夜の耳へ聞こえるのは鈴――、ではない。小さな騒がしい音。
「シンバル……ちげぇ、これ、アレだ……タンバリンだ」
独特な小さい打楽器の音とやかましいくらいの震えるほどの高音の小さい金属の丸い物体がぶつかる音は、鏡夜も知っているものだ。
鏡夜は朝っぱらからドカシャラ響く、楽器の音に頭を押さえながら、起き上がる。自室のドアを開けると、リビングでは、桃音がタンバリンを持って踊っていた。
踊っていて、演奏していた。とんでもない技量と速度でタンバリンを全身の周りに振り回し、叩き、鳴らし、ハイテンポな曲を奏でている。
桃音の視線の先を辿れば、物々しいカメラが桃音の姿を記録していた。
(モノづくりが趣味なんじゃねぇのか、よく考えるとぎりぎりモノづくりか? PVの撮影か? ……クオリティはずば抜けたものになってるが)
桃音の超人的な身体能力によって、挙動がダイナミック極まりなかった。
鏡夜は呆れたような表情で桃音の踊りを見守る。邪魔する気はない。
数分後、チャリンと、タンバリンを振り回して、曲のオチをつけた桃音はタンバリンを机に置くと、歩いてカメラに近づいてスイッチを切った。
桃音はカメラを物置に仕舞うと、振り向いて、鏡夜を視界に捉える。
凄まじい挙動をし続けていたにも拘わらず、汗一つかいておらず、呼吸も乱れていなかった。
【喋れない/疲れない】呪い……会話機能をオミットし、無限の体力を持つ桃音ゆえに当然なのだが。
「おはようございます、桃音さん。精が出ますね」
鏡夜は腕を組んで壁に寄り掛かりながら言う。桃音は無反応で振り向くと、キッチン――ではなく、バスルームへと向かった。
(なんで?)
汗を流してないのは知ってるのだが。
鏡夜は腑に落ちない気分になって、首を傾げた。
「おはようございます、我が君」
「あ、おはようございます、かぐやさん」
キッチンから桃音のエプロンを身に着けたかぐやが顔を出して挨拶をした。
「私が起こそうと思ったんだけど、不語桃音が起床予定時間にいきなり演舞? し始めたから、部屋に行けなくてごめんなさい」
「別になんとも思ってませんが」
(なにやってんだ桃音さんとは思ってる)
「それはいけないわ! 私の起こし方は、本当にもう快適なのよ! 絶対一回味わったら病みつきなほど甘美よ!」
「逆に怖いんですけどぉ」
「なんでぇ……じゃあ、今、朝餉作ってるから、とってもおいしいわよ! 朝餉で説得力の足しにするわ」
「はぁ、楽しみにしてます」
どうも朝シャワーと朝食の順番が前後するようだ。鏡夜に括りはないが。
ああだこうだと朝の準備を終えて(かぐやが作ったのは味付けの濃い精進料理のようなものだった)、桃音の家を出る。
絢爛の森を出て、絢爛の森と外の境界付近。
昨夜、ネットニュースで灰原鏡夜についての記事があった以上、記者あるいは野次馬がいると思ったのだが……。
地面に埋まっていた。
首だけ出した人間の頭とアンドロイドの頭とドラゴンの頭と大きな兎の頭が並んでいた。鏡夜はドラゴンと目が合う。
「灰原、きょォぅッ……」
ドラゴンが何事かを喋ろうとした瞬間、ドラゴンの口の部分に石が当たり、頭がごきゅんと横を向く。ドラゴンは泡を吹いて気絶した。
鏡夜は桃音を見る。
桃音は手の中で石を弄んでいた。
鏡夜が周辺の状況を見回すと、カメラやマイクや遮光板と言ったマスメディアに必須そうな道具も埋まっている。
「……何があったので?」
「こほん、不語桃音がタンバリンで演舞しながら、掃討しました」
かぐやが静かに言う。鏡夜は驚く。
「タンバリンで演、踊りながら?!」
踊り狂って高機動する桃音を想像しようとして思考が故障しかける。リアリティを持って、そんな出来事があったんだ、と思えない。先ほどの超人的身体能力で、ダンスしながら動き回って、穴を掘って埋める……? 意味不明だ。
「あー………桃音さん、あちらの方たちは、どうなるのでしょうか?」
鏡夜の問いに、桃音は不思議そうに首を捻るだけだった。
絢爛の森の管理人、侵入者の撃退及び確保率百%、継続中。
灰原鏡夜と不語桃音が決着の塔攻略支援ドームに行って最初に会ったのは、バレッタ・パストリシアではなかった。白百合華澄でもなかったし、薄浅葱でも久竜晴水でも、ましては未だ知らぬ魔王でも聖女でもなかった――。
軍服を着た妙齢の女性が受付に立っている染矢令美に要求している。
「なぜだ! なぜクエストを発行できない!」
「でーすーかーらー、主導としては我が国が文武を尽くしておりますが、まず! 前提として! 規定として! 原則として!! 支援は公平でなければならないんですよ、少佐!」
「我が国の英雄が失踪したんだぞ!」
(え? マジで?)
鏡夜は少佐と呼ばれた女性の話を聞いて驚いた。つい先日知り合ったばかりの競争相手の喪失に、鏡夜は喜びなどまったく感じず、ただ困惑した。
染矢は鏡夜と桃音が少佐と呼ばれた女性の後ろに立っていることに気づかずにさらに言葉を続ける。
「我が国云々など一切関知しません! 国家間のパワーバランスなど関係ありません! ただ当たり前の評価基準から選ばれただけです!」
「ならば、選ばれた者を救出せねばならないだろう! 軍隊を使ってでも!」
「ありえない!!!」
テンションが高い(と言っても有口聖ほどではない)染矢令美が、激しく感情的に否定する。
「彼らは競争をしているんです。代表の競争で世界の命運が決まるんです。〈決着〉に、政治的な横やり――ましてや国家武力介入などしてはならないのですよ! 入口へ突入させたことすら、決して褒められたものではない超法規的措置だというのに!」
「倫理として問題だろう!! 見捨てて誇れるのか! 未来に!」
「詭弁です! 貴女の個人的情による政治的干渉を、“未来”に言い換えたところで、何も通じない。少佐、決着の塔攻略支援ドームは聞き入れません」
「お前では埒があかん! 私をダンジョンへ入れろ!」
「いいえ、絶対に、駄目です。弟さんが心配なのはわかりますが、彼は代表者として中に入り、挑戦しているのです。――干渉です」
「クソ! 命をなんだと思ってるんだ!」
「貴女こそ、決着の塔をなんだと思ってるんですか!?」
そして少佐と呼ばれた女性は振り向いて、鏡夜に気づいた。遅れて染矢も鏡夜に気づき、あっちゃぁ、と片手で頭を押さえた。
「おい、お前」
(あ、この話しかけ方、いつかの犬耳男さん思い出すな)
「なんです?」
「灰原鏡夜だな」
「ええ、灰色の原っぱと書いて鏡の夜で、ハイバラキョウヤですよ、お姉さん」
「契国空軍少佐、久竜恒子だ。……英雄、久竜晴水がダンジョン内で失踪した。探し出して欲しい」
「はぁ」
鏡夜は久竜恒子の後ろでブンブンと首を振って、さらに両腕も降ってアピールしている、染矢オペレーターの様子をうかがう。どう解釈してもボディランゲージで断れと必死に伝えていた。
染矢令美か、あるいは久竜姉弟か。鏡夜は、少し考えていった。
「子供じゃないんですし、自分でなんとかするのでは?」
鏡夜は不語桃音の拳の速度から時速2キロメートルほど下がった拳を顔面に喰らいそうになったので、片手で拳を掴んで防いだ。
(あー………)
真正面から攻撃してきたので、まったく当たり前のように防御を――しかも、手袋で、触れてしまった。
「言葉選びを間違えましたかね?」
「こっ……くっ……」
(【状態異常:恐怖】か)
久竜恒子は血の気が引いた顔で、一歩下がると猛ダッシュで鏡夜の横を通り過ぎて、ドームの外へと飛び出し、走り去っていった。
「ふー」
染矢令美は心底疲れたように溜め息を吐いた。
「ありがとうございます。……何をしたかは問わないでおきましょう。突き詰めると問題になってしまうので」
「ありがとうございます?」
互いにお礼を告げる奇妙なやりとりをした後、鏡夜は質問した。
「久竜さんが失踪したとか?」
「正確に言うと行方不明です。ダンジョンの第二階層から戻ってこないんです」
「……うーん?」
鏡夜は腕を組んで首を捻る。
「死にかけると、外にテレポーテーションするのに、ですか?」
「はい、推測となりますが、生きたまま何らかの理由によって身動きが取れないのだと思われます。死亡判定となれば自動で戻る以上、捜索などの手立ては取るべきではないかと」
「私はそんな風にはなりたくないですかねぇ……うーん、どんな風に行方不明になったか教えてもらえませんか?」
「私はできませんが、……どうぞ」
染矢令美は机から一枚の封筒を取り出した。鏡夜は受け取って裏返す。
「なんともレトロな……今どき封蝋なんて見かけませんよ」
「聖女、ミリア・メビウスさんから、貴方へ渡してくださいと頼まれました。久竜晴水の失踪時、ミリアさんは彼と一緒に第二階層に挑戦していたので、直接訪ねた方がよろしいかと」
「なるほど?」
鏡夜は《鏡現》でペーターナイフを作ると封筒を切って開封した。中から便箋を取り出した鏡夜と、ついでに横にいる桃音とかぐやが便箋を読む。
『拝啓、鏡の魔人様。
新年の御祝詞を申し上げます。つきましては灰原鏡夜様との会談を申し入れたくお手紙を出させていただきました。一月三日、決着の塔攻略支援ドーム最上階のホールにおりますので、ご都合がよろしい時にいらっしゃってください。できれば……いいえ、絶対に、絶対に、一人で。持ち物及び握手券は不要です。
聖女・ミリア・メビウスより』
(もう手紙でわかるわ絶対変人だよこれ)
鏡夜は便箋を封筒に戻す。
「あと、白百合さんから伝言が」
染矢の言葉に鏡夜は首を傾げた。
「メールじゃなくて、伝言ですか、彼女が?」
「しばらく来れないので、何かご用事があるのでしたらそちらを優先してください、だそうです」
「らしくないですね……華澄さんの人となりを充分に知ってるわけではないんですが。はい。伝言はわかりました」
用事と言われても、と鏡夜は封筒を片手でペラペラと振り回す。
「では桃音さん、かぐやさん、しばらくこちらでお待ちいただけます?」
「はぁ、我が君」
「なんです?」
「人形は人でも人外でもないんだよ? 私がついていっても大丈夫。機械人形がいても同じ内容を言うわ」
「そうなんですか?」
鏡夜は不思議そうに桃音へ視線を向けた。桃音は鏡夜をじーっと見返すと、かぐやの手首を掴んで引っ張った。
彼女たちはスタスタと歩き、ラウンジのソファに、一人と一体で座る。
「不語桃音? はなしてくださらないかしら? 昨夜も思ったけど力強すぎない? 剛力ィな種族の血でも混じってるの?」
鏡夜は肩を竦めた。
「私一人は私一人のようです。桃音さん、教えてくださりありがとうございます」
「……」
もちろん返答も反応もない。彼女はコミュニケーション不可能者だ――。行動だけが彼女の意思である。
「では、行ってまいります。かぐやさんもしっかり待機してくださいね」
「……りょーかいです。むー」
「いってらっしゃいませ」
「……」
不機嫌なかぐやと事務的な染矢と無言の桃音と別れて、鏡夜は聖女の元へ向かう。
決着の塔、攻略支援ドーム最上階、六階。チンッ、と音を立てて開いた巨大なエレベーターから出ると、真正面に大きな木製の両開き扉があった。左右には、ぐるっと囲うように通路が伸びている。
球を上半分に割ったような形をした天井である。六階建ての現代高層ドームに今いるのを鏡夜は強く感じた。
木製の両開き扉には、【ホール】【終日利用】【ミリア・メビウス】といった金色の名札が取り付けられている。どうも最上階ホールは予約制で使えるらしい……。
鏡夜は髪を戸惑ったようにいじくると、ホールへ――入らず、右側の通路へ向かった。
(なんとなく――気後れというのか、悪い予感というのか、そういうものを感じるな)
まるでとてつもない大蛇が眠ってる洞穴に孤立無援の無策で突入するような、悪い想像から生まれる惑いが、即座に入室する賢明な行動を避けさせた。
他者が誰もおらず、好奇でも危機でもないのなら、灰原鏡夜とはこんな男だ。他人への恐れから、遠回りをするような、弱さがあり。そして自身の弱さを決して嫌ってはいない。
「うん?」
鏡夜は丸く続く廊下の途中に、鈍く銀色に光る未来的自動販売機が一つ、壁にめり込むように設置されているのに気づいた。
鏡夜はふらふらと自動販売機の傍に寄る。自動販売機の前を通り過ぎ、名残惜しそうに何度も振り返りながら立ち止まらずに歩みを進める。
「アルガグラムコーヒー……、ねぇ」
興味深い。飲んでみたい。だが持ち合わせがない。所持金ゼロ。いつか小銭を稼いだら買いに来ようと思う。超多角的に活動しているアルガグラムを何度も目撃している。クオリティは全て高かった。今度も期待できる、と鏡夜は先ほどの重い足取りとは打って変わってルンルン気分で歩き――再びホールの扉に辿り着いた時、思い出したと足取りを重くした。
一周してしまったらしい。だが有意義な寄り道だった。寄り道、無駄な時間などといった概念を失くしかけていたので、有益かつ無駄な行為ができて少し嬉しい。
だからこそ意を決してホールに突入できる、と理由にもならない理論づけして決意を固めて、鏡夜はホールの扉を開いた。
まず感じたのは薄暗さであり――次に感じたのは明るさだった。天井から降り注ぐ光がステージに当たり、椅子に座っていた一人の女性を照らす。
ふわふわとした青髪の柔らかな表情をした女性。スタイルの造形美を強調する、ギリギリのラインで上品さを保つ青いシスター服の女性はふわりと立ち上がると、にこっと笑ってお辞儀をした。
誰であろう、彼女こそ《聖女》――ミリア・メビウスである。
かつての栄華、失われた神話の栄光を研究し切望する、望郷教会の代表。どんな老獪なCEOだがCOOっぽいものが出てくるのかと思えば。
《聖女》を想像してくださいと質問されて、思いうかぶ二つの選択肢。戦う聖女と癒す聖女のうち、後者がそっくり目の前に現れたかのような、第一印象だった。
なぜか背筋が凍る――。
「来てくださって、ありがとうございます」
鏡夜は姿勢を正した。
「お呼びいただき、ありがとうございます」
鏡夜は頭を下げた。
「ふふ、そんなに身構えなくてもいいですよ、私と貴方以外、誰もいませんから。安心してください」
穏やかに、こちらを安心させようと声をかけるミリアに鏡夜は笑顔の仮面で応じた。
「お気になさらず」
「……少しこちらに来ていただけますか?」
鏡夜は無言で頷くと、ホールのステージへと近づいた。一階にもステージホールがあって六階にもステージホールがあるなんて、どんだけイベントを開きたいんだここで、と鏡夜は緊張を誤魔化すためにいつもように脳内でツッコミを入れる。
ミリアの足元まで来た。ミリアは椅子の上に置いてあった四角く硬い紙を取り出すと、さらさらと書く。そして屈んで鏡夜へ手渡す。
「サインをあげましょう」
そして渡される色紙。有名店の壁とかに飾ってある有名人の色紙と同じような縁取りと材質だ。斜めに流れるような筆記体でMilia・Möbiusと書いてある。
鏡夜はサイン色紙を片手に持ってまじまじと眺める。
「生まれて初めてサインをもらいましたね」
「光栄です! ブロマイドもつけちゃいましょう」
そう言ってミリア・メビウスはポケットからブロマイドを取り出すと、鏡夜に渡した。
(アイドルかな?)
残念ながら鏡夜はアイドル趣味に詳しくないのだが、連想したのはそれだ。えらくきゃぴきゃぴした、爽やかな笑顔とポーズを決めた水色のシスター姿をしたミリア・メビウスの写真――ブロマイドを渡された。
鏡夜よりかは年上なのだが、圧倒的な自信と醸し出される魅力によって、なかなかに堂が入っている……アイドルとしてだが。
由縁はともかくとして教会と名乗り、かつそのトップが自分の偶像を喜ばし気に渡すとは。
「ポスターもいりますか?」
「あ、ありがとうございます……?」
さらに重ねてくるとは。やっぱりアイドルだな、もう言い訳のしようもない。と鏡夜はポスターを受け取りながら思った。
サイン色紙とブロマイドと丸められたポスターをポケットに仕舞ったり、ベルトに差し込んだり脇に持ったりした後、鏡夜はステージ上のミリアへ言う。
「で、何の用です?」
「私のファンになってほしかっただけ……と言ったらどうします?」
「……ぴかぴか光るケミカルなライトの持ち合わせがないので、ミリアちゃんふっふー、と応援するのはまたの機会にしましょうと、解答します」
「残念です……」
アイドルだと思った印象のままいつものように意地を張って虚勢で皮肉げに答えた鏡夜へ、ミリアは心底残念そうな表情で愁いを帯びた溜め息を吐く。
(やりづらい)
また危険な兆候だ。冒険者は舐められてはいけない。それは侮蔑と嘲笑はもちろん、慈善へも向けられる。
優しげで、柔らかく、お茶目で、好意的な女性。そんな魅力的なものにすっかり溶けて懐いて依存してしまうのもまた――舐められる。
鏡夜は媚びたような愛想笑いをしたい欲求を戒めて、優雅に微笑する。ミリアは柔和な笑顔で鏡夜を見下ろす。
まるで鏡のように、笑顔と笑顔で相対する。
先に口を開いたのは、ミリアだった。
「私と組みませんか? 何が欲しいですか?」
懐柔―――勧誘か。
「何が欲しいと思います?」
「女か金か権力か――が一般的な欲望ではないでしょうか」
(こっわ。こいつ――こんなはっきり言ってるのに)
威圧感がまるでない。逆に恐ろしい。完全に、完璧に自己を支配している。自制心で態度を制御しきっている。
意地と虚勢で塗り固めた鏡夜は、自分よりも出来の良い鏡を前にした気分になった。しかし、気圧されてしまうわけにもいかない。鏡夜はできる限りシンプルに答えた。
「違いますね、どれでもない」
「なら、なんです?」
「灰原鏡夜、ですよ」
「………」
ミリアの教唆は成り立たない。欲しいものは灰原鏡夜である。魔人ではない、人間としての灰原鏡夜。
だから――ありえない。何かに従うとか、所属するとか、欲望を追及するとか――心の余裕はまったくない。灰原鏡夜は決着を自分のためにしか使うつもりがないのだ。
「だから、貴女の誘惑は、残念ながら魅力的ではないです」
「傲慢ですね。傲慢の報いは恐ろしくありませんか?」
「恫喝も、残念ながら無力かと。報いって、何をするんです? 具体的には?」
「……本当に、傲慢です」
鏡夜はにこりと笑った。鏡夜の家族はこの世界にいない。鏡夜の友人はこの世界にいない。鏡夜の仲間は圧倒的に強い不語桃音と、強烈に抜け目のない白百合華澄と異常なスペックのあるバレッタと、明らかに高性能極まりないかぐや、しかいない。
誰もが、ただの刺客や陰謀でなんとかなるとは思えず――彼女たち自身で片づけてしまいそうだ―――さらに、根本的な問題として、信頼など最初からない。
会ってまだ数日しか経ってないにも拘らず深い信用など得られるわけがないし得て良いはずがない。
そして、それでよいのだ。アドリブでチームを組んで現場の機転でチームワークを発揮する。利用していると形容すればおおよそ正しく利用されていると表現すればもっと正しい――。
だがあえて鏡夜が率先して裏切ると仮定してみると、さらに浮かび上がる問題がある。
裏切った場合――白百合華澄を裏切る行為はパーティメンバーから外すしかできないが――彼女は特別顧問に戻るだけだ。そして彼女が齎すのは苛烈な報復だけだろう。意味がない。利点がない。
不語桃音はもっとまずい。彼女の弱点につけこむようなスタイリッシュ裏切りムーブをせずに、格好悪い裏切りをした場合、何がどうなるかまったく予測がつかない。ただ鏡夜の直感がビシビシ伝えるところによれば、最悪たぶん死ぬと思う。鏡夜は死にたくないので、やはり裏切れない
となると鏡夜自身へ直接的に何かするしかないのだが―――。
鏡夜をなんとかできるそんなものがあるなら決着の塔の攻略に使えばよろしい。そんなものはないだろう。……ただのロジックでしかない。薄浅葱のように推理と呼ぶのもおこがましい。だから、ミリアの恫喝は、無力だ。ありもしない、虚像なのだから。
「―――なら〈神〉ですか」
ミリアは静かに言った。
「〈神〉?」
「貴方は、〈神〉についてどれくらい知っていますか?」
「残念ながら、あまり知りませんねー」
鏡夜はできる限りシニカルな態度で肩を竦めた。内心は冷や汗を垂らしていたが。〈神〉はなんだかんだと聞く機会を逃していた。まったくの不確定要素である〈神〉を駆け引きの材料にされるのは、始まりからして不利だ。
「では、聖女が、貴方に、説明してあげましょう」
愛想良く、まるで長年の友達のようにミリアは語る。
「〈神〉とは、観測不能・干渉不能・交渉不可能の姿なき何かです。ただ、〈神〉は存在します。なぜ、我々は〈神〉の存在を確信しているのでしょうか?」
まるで出来た講義のように、聖女は鏡の魔人に問いかける。鏡夜は即座に答えられた。
「呪詛と祝福でしょう」
ミリアは頷く。
「祝福と呪詛を人類人外に施せる大本です。呪術師の呪いを扱う力も、聖職者の祝福を扱う力も、神から施術された力に過ぎないのです。はっきり言ってしまえば、〈神〉ではないものが扱う生命操作技術は、〈神〉にとって児戯に過ぎないのですよ。そして、本題なのですが。我々望郷教会は〈神〉をいくつか――恐らくですが、保持しています。興味ありませんか?」
「扱えない力には心惹かれません」
ただでさえ鏡夜は過度に負担な呪詛に纏わり憑かれているのだ。
「ふふ、安心してください。制約や制限の条件は、我々が永い永い時間をかけて、文献と実地試験によって導き出してきました――。見えず、触れず、語れずとも。同じ刺激を与えれば同じ反応を返す――。ええ、そういうものでしょう?」
(……マジで神に対する敬意とかねぇんだな)
極めて合理的な姿勢だ――、人道主義では、だが。扱いが考古学者にとっての恐竜や、医学者にとってのモルモットと同じだ。
神代を望郷しながら〈神〉への敬意や信仰がまるでない。救う技術であり、操る力である。いつか華澄が言った“神ではなく神の御業を崇める不信心者の集まり”という言葉を思い出す。流石華澄。嫌になるほど適格だ。
「……〈神〉様って、呪いを解いてくれるんですか?」
「―――……賭けてみる価値はあると思いません?」
「はい、お断りします。誠実に答えてくださりありがとうございます!」
餅は餅屋。呪詛については魔王に聞けと有口聖に言われたが、あの喧しいシスターはこうも言っていた。呪術師、聖職者ならおおよそ呪詛量、祝福量がわかる、と。
聖女の測定結果は、“分の悪い賭け”だ。鏡夜にははっきりと、そんな副音声が聞こえた。
「では、私からも一つ、久竜晴水さんは貴女と同行していた時に失踪したそうですが、なぜ失踪をしたのですか?」
「回答すれば貴方は私と協力してくださいますか? ただの――合理的な、判断で」
「しないです。なら、いいです。そんな大切な用事でもないですし?」
鏡夜は仕方なさそうに抱えた色紙を弄んだ。そして口を開く。
「ではもう、行っても……おおっと、一つ、よろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
表面上は相も変わらず穏やかで柔らかなやりとり。
「ミリアさんは……〈決着〉についてどう思われます?」
「答えたら私の部下になってくれたりは」
「しませんね。答えたくなかったら答えなくてもいいですよ」
「せっかくですから……。〈チャンス〉でしょうか」
ミリア・メビウスは一言一言確かめるように言った。
「今までずっと待っていた。かつての憧れを叶える絶好の機会。過去の――長い長い過去のわだかまりや因縁を解決し、天国のような世界を実現できる鍵。神代を終わらせてしまったのが〈契約〉なら、また新しい時代を始めるのも〈契約〉である。……と、私は思っていますね」
「なら、〈決着〉を手に入れたら貴女はどうします?」
「回帰を――ただ回帰だけを望みましょう」
「そうですか、ファンとして応援させていただきます」
ミリア・メビウスは虚をつかれたように、きょとんとした顔をした。
「私を――応援すると? 敵対者である貴方が?」
「ええ、決着は私が手に入れますし、不幸なすれ違いこそありましたが――私にファンになって欲しいと言った貴女が嫌いではないので。お嫌でしたか?」
素朴な理由だ。鏡夜が意地と虚勢を形作るような強者の姿がミリア・メビウスにはあった。鏡夜は自分の弱さを誇る人間だし、強さにかまけた展開が嫌いではあるが――誠実な、強さは決して嫌いではないのだ。
「いいえ……嬉しいです。灰原鏡夜」
鏡夜は大げさに一礼すると、くるりと背を向けてホールから去っていった。
灰原鏡夜はミリア・メビウスのファンとなった。些細なことである。
鏡夜は出てすぐにあるエレベーターに乗り、一階のボタンを押した。扉が閉まりそうになり―――すっと、女性の手が扉を掴んで止めた。
鏡夜は驚いてシミ一つない美しい少女の手へ注視する。
「少し、待ってくださいません?」
「華澄さん?」
異物を感知して自動的に再び開くエレベーターのドア。その中へ、白百合華澄が滑り込んできた。
閉まるドア。下がるエレベーター。
鏡夜はぽかんと華澄へ言う。
「どうかなさいましたの?」
「どこに……いたんですか?」
そうだ。おかしい。灰原鏡夜は、気まぐれに、六階部分を。ドームをぐるりと回った。鏡夜が回った回廊のどこにも白百合華澄がいなかった。
白百合はすまし顔で言った。
「灰原さん。攻略支援ドームは塔を中心にした円形の建物ですの。つまり、ホールと廊下しかない最上階は奇妙ですわ。なぜかといえば、ホールと廊下の一部の間に、塔が通っているはずからですの」
「……構造の話です?」
鏡夜は脳の中で想像する。つながった丸い廊下、中心にあるホール。上部分のホールと廊下には空白部分があり、空白に決着の塔が通っている……。
「丸い塔に、丸い廊下、四角いホール。組み合わせればデッドスペースができますわよね。つまり、わたくしが、いた空間ですわ。聖女さえもが油断ならない。なら、抜け目なく行動しておくべきと思いません?」
「盗み聞きしていたんですか」
「盗聴と表現するには、いささかスマートさに欠けておりましたけれどね」
納得した。彼女が突然メール……便利で電子的な手段ではなく、人づての伝言なんて不確かなものを託した理由。
「ミリアさんが手紙を渡したところを見ていたんですね」
「ええ……時間がありませんでしたので、あのような形に。そんなことより、ずいぶん心惹かれておりましたのね。あそこまで惜しそうな貴方は初めてですわ」
そう言って華澄は鏡夜に缶コーヒーを優雅に手渡した。鏡夜は手に持った贈呈品に表示されている名前を読む。
先ほどのアルガグラムコーヒーだった。
(奢ってもらっちゃった……なっさけねぇ)
ただまぁ、人の善意を無駄にする趣味も、コーヒーを無駄にする嗜好もない。
「どうも」
鏡夜は微笑んでから、プルタブを開けると、アルガグラムコーヒーを飲んだ。
(うっま)
まるで一滴の神の雫を舐めとるような味わい深さ。喉の乾きを癒す香りと瑞々しさ。今まで飲んだ経験がないほどの逸品だった。
鏡夜は一口飲んで、完全に魅了されてしまった。できれば買えたらいいな、が、絶対に買う、という決意へ変わる。
鏡夜は頬を緩めながらアルガグラムコーヒーを飲む。華澄は口を開いた。
「お気に召しましたの?」
鏡夜は缶コーヒーから口を話して答える
「ええ、このコーヒーはとても良い」
「一滴の雫のごとく甘露だそうですし?」
「アルガグラム製品だそうですけど、ご存知でした?」
「技術者が知り合いですわ、機会がありましたら紹介しますの」
「是非……おっと、私と貴女の時間が空いた時にでも」
今は塔の攻略中だ。趣味に走るわけにはいかない。
チンッ、と音が鳴ってエレベーターは一階に辿り着いた。扉が開く。鏡夜と華澄は並んで歩きだした。
「正直まったく気づけませんでしたねぇ」
「ふふ、そう簡単に気取られてしまってはエージェントの名折れですのよ」
缶コーヒーを飲み終わった鏡夜は、近くのゴミ箱へ缶コーヒーを入れた後、華澄へ声をかける。
……本当にすごい。灰原鏡夜の五感はとてつもなく強化されているのだ。その上でなお、幽鬼の時の桃音でさえ超えて気配一つ感じなかった。彼女でさえ小屋の中で動いた時は感じ取れたのに――。
鏡夜の背筋は本当の意味で凍った。
気づかなかった? なぜ気づかなかった? 彼女はエレベーターに乗り込んできたんだぞ!! 白百合華澄は鏡夜のすぐ傍にいたはずなのだ! すぐ傍にいなければエレベーターの扉に手を突っ込んで止められない! だが、華澄はいた!
鏡夜を不意打ちで殺せる距離まで、まったく存在を気取られずに傍にいた!!!
「あ、お帰り我が君―、あれ? 一人じゃなかったの?」
「くすくす、お帰りなさい、我が主……」
戦慄しているうちに、鏡夜と華澄はラウンジにいた桃音、かぐや、そしてバレッタと合流した。バレッタは後から来たのだろう。
「我が君?」
「ああ、いえ……」
鏡夜は首に手を置いて、瞼を閉じて首を傾げた。そしてパチリと目を開いて言った。
「お待たせしました?」
「結構待ったね、ねぇ?」
「………」
「くすくす……」
桃音は無反応であり、バレッタは微笑むだけだった。かぐやは肩を竦める。
「で、〈英雄〉さんの失踪の理由は聞けた?」
「聞けませんでしたねぇ。あ、いろいろ貰いましたけど。かぐやさん持っていてくれません?」
かぐやは鏡夜に手渡されたミリア・メビウスのサイン色紙とポスターを受け取った。
「何これ。……こんなゴミを渡して教えないなんて邪悪な聖女ね……どこの宗教体系の聖女なのかしら」
「望郷教会ですわね」
華澄はすげなく言った。
「別に必死に――灰原さんの身を差し出してまで、得る情報ではありませんわ。だってバレッタがいるのですから」
「……あー」
そうだった。バレッタは過去一年まで観測できる。つまりくまなく観測すればわかるのだ。
しかも第二階層で失踪したのは、すでに染矢令美から聞き取っている。
「入口から痕跡を追えば、ということです?」
「灰原さん、久竜さんを探すんですの? 何かこう、依頼をされたとか」
「依頼はされましたが、断りましたよ」
「……? 断ったのに気にするんですの? 塔の攻略に関係ないですわよね?」
「……たしかに」
たしかに鏡夜が、本当に自分のためだけに動くのであれば、久竜晴水の捜索など必要のないものだ。聖女に聞くまでもなかった。話の流れ、出来事の流れで動いていたが、確かに、必要がない。どうせ晴水は自らの力で戻ってくるだろうし、ダンジョンの性質上、死なないのだからいつか戻ってくるだろうと、鏡夜は久竜晴水の失踪など忘れてもいい……。
「………」
鏡夜はしばらく考えて。
「貸しになりますし?」
「……そうですの。よろしいですわ」
「我が君が言うならそうなのかしら?」
「くすくす……」
「……」
含みのある返答&疑問&微笑&無言。……以前よりかは幾分か返答に意味が出てきた。
〈1000年1月3日 午後〉
聖女と対話の前に寄り道をしたせいか、時刻は昼になっていた。鏡夜一行は食堂〈刈宮〉で昼食を終えると、さっそくダンジョンへと潜った。
生物ではないかぐやが物を食べているのは生体人形の仕様なのかという話をしながら今までの道を通り抜けて………第二階層へ着いた。
第二階層【密林】は一言で言えば、アマゾンの熱帯雨林を想像すればだいたい正解なダンジョンだった。
眩しいくらいの光が、葉と蔦によって遮られ薄暗くなる。多種多様な植生はまさしく熱帯雨林のものであった。
動物や鳥の鳴き声がせず、視界に虫がいないのがものすごく気持ち悪い。自然モチーフなのに不自然さがちらつく。
バレッタは左右へ首をゆらし、あたりを視界に収めて観測する。
「くすくす……パーティーメンバーが全滅した久竜晴水様は、外部の冒険者を雇う前に、他の協力者、すなわちミリア・メビウス様一行と随行して、ダンジョン内を探ることを選択しました。対価は単純に久竜晴水様が率先し武力として協力することだそうです。メビウス様曰く、貴方にはその程度の価値しかない、とか……。そして、あちらへ……」
バレッタはそう言って先導するように歩き始めた。鏡夜の願い通り辿ってくれるらしい。しかし、バレッタの過去観測は相変わらず凄まじい。ダンジョンの中だけではなく、外でも、言動に気を付けないと過去観測で鏡夜の隠しておきたい様々なことがすっぱ抜かれてしまう。ただ、今いる場所の過去しか観測できないのが救いといえば救いか。
歩きながら、蔓がうざい、と鏡夜は足の力でぶちっ、と蔓を引きちぎる。地面すら落ち葉と雑草と蔓とで埋まっている。植物の力溢れすぎである。
高い木々で日差しが遮れている場合、背の低い植物は日光を受けらず生えづらいはずなのだが、あくまで場を薄暗くするぐらいしか生い茂ってない上の葉のせいで、十分雑草が育つ余地があったらしい。
バレッタは嫋やかにニコニコと微笑みながら、鬱蒼とした空間を歩いていく。あまりにも周りの環境とあっていなかった。
そんなこと言ったら全身灰色スーツの男とお嬢様学校の制服のようなブレザー少女と落ち着いた文学少女じみたロングスカートの少女とカジュアルにアレンジされた十二単を着た少女という、どこの場所に行けば合うんですかみたいな集団ではあるのだが。
「遮蔽物が多すぎて車が出せませんわね」
華澄は呆れたように手の甲で木を叩いた。重い音が響いているので、木の中はみっちりの満ちているのだろう……。なぎ倒すのも伐採するのも一苦労だ。
モンスターの出現率は第一階層【荒野】よりも低かった。地中から飛び出て高速で特攻、胴体に風穴を開けようとするスラッシャー・ワーム。苔の身体を持ち、鳴き声でダメージを与えようとしてくるモス・マンドレイクといった神話に影も形もないけどそれなりに有名なモンスターが襲い掛かってくるが、即座に塵に還っていく。
やはり過剰戦闘能力ご一行である。
しばらくしてバレッタは、扉の前で立ち止まった。
「次の階層の扉? もうクリアですか?」
「くすくす……よく見てください……。こちらに鍵穴があるでしょう……?」
鏡夜はバレッタの言葉に従って扉を観察する。
石造りの扉には、小さな空洞があった。空洞の上には鍵の絵柄が描かれている。鏡夜はふむ? と次の階層への扉をさらに注視する。
扉には鍵の絵以外にも三つの絵柄が描かれていた。
一つ目はなんらかの集団の絵。棒人間と棒蜥蜴が寄り集まって集落を形成していた。そこから矢印が伸びて弓矢を向けられた巨大な鳥が描かれている……。そして巨大な鳥からまた矢印が伸びて地面に墜落した矢が刺さった鳥が描かれ……最後の絵、鍵の絵へ矢印を伸ばしていた。
つまり。
集落→弓矢を向けられた鳥→矢が刺さって落ちた鳥→鍵。
「………」
華澄はうんざりした顔で絵柄を見ていた。
桃音は不思議そうに首を傾げている。
バレッタは言った。
「くすくす……つまり……第二階層のクリア方法が、図解されているのでしょうね……」
「おつかいクエスト?」
鏡夜は思いついたままに言った。かぐやはほわほわと言う。
「〈Q‐z〉のカラクリはまだ確認していないわね、我が君」
「そっちの忌々しい方ではなく。こっちも面倒だ、なんて意味では忌々しいのですが……」
「バレッタ、メビウスさんたちはどちらに向かいましたの? それとも殺し合ったので?」
「くすくす、残念ながらジェノサイドは行われておりませんが、どうもユニーク・モンスターと表現すべきものが現れたようで聖女パーティの仲間が全身を砕かれて二名ほど即死してますね。これは……くすくす……データベース、ヒット。寺つつき。契国土着の怨霊型モンスター。ああ、でも久竜様が率先して戦って、切り捨てましたね。ふむ、リポップはしないでしょう。おそらく千年前、異界に塗り替えられず残った生体機械でしょうし……」
「聖堂教会はエリクサーを大量に保有してますから、死亡テレポーテーションからの復帰数……残機数が段違いですのに、なにを守りにいっているんですの?」
言外に見捨てろと言い放つ華澄が鏡夜は怖かった。だが表に恐怖を出すわけにもいかない。鏡夜は言葉だけを捉えて会話する。
「エリクサーって、それずるくないです?」
「くすくす……性能差をズルと呼ぶのはあまりお勧めしません……対戦相手ならなおさらです……ああ。こちらへ進み始めました……」
バレッタは再び歩き出した。どうやら事件があったのは扉の前ではないらしい。
「あー、バレッタさん?」
「くすくす……メビウス様たちが通った時、風が吹きました。強い風が木々の合間を通り抜けた時……木々が枯れたのです」
確かに木々がすっかり枯れていた。腐食していた。枯れている部分と生い茂っている部分の境界は曖昧でぶれている。
「枯葉剤……?」
そう口にしてから鏡夜は急いで手で口を覆った。
「うーん、違いますね?」
かぐやはそう言って、大きく深呼吸した。
「人体に有害な物質は検知できません」
「そうやって検査するんですねえ」
「人形ですし……」
「くすくす……粉が散布されたわけではありません。風……です。風だけが通り抜けて急速に植物を腐らせたのです……極めて毒性の高い毒ガスが……叩きつけられたのでしょう」
「難易度高すぎません?」
「くすくす……メビウス様のパーティが毒ガスによって崩れ……なお吹きすさぶ突風、浮き上がる身体、天へ吹き飛ぶ久竜晴水と、そういうわけです」
「空を飛んで行方不明とは。オズの魔法使いのようですわね」
「人が失踪したんですけどね」
バレッタは空を指さす。あちらに飛んでいった、ということだろう。毒ガスで身体がぐずぐずになることなくぶっ飛んだ。奇妙な話だ。奇妙といえば。
「ミリアさんはどうなったんで?」
「くすくす……逃げて……集落にいた人型生物と蜥蜴人型生物を盾にすることで、完全に逃げおおせました。ほら」
バレッタは地面を指さした。ボロボロに崩れ切ってはいるが、たしかによくよく観察すれば四肢と頭がある。崩れ炭化したような何かがある……。
集落。人型と蜥蜴人型。間違いなく、次の階層への扉に書いてあった絵柄の対象だ。鍵になるだろう人たちが、滅び切っていた。
「おつかいクエストなのに初手から詰んでるんですけどおかしくないですか? ミリアさん……」
「くすくす、おそらく、。詰みではないかと。メビウス様たちが現場を通る一時間前、集落はありませんでした……メビウス様たちが近づいた時に、突如集落が出現したのです……地面から」
「地面から!?」
「恐らく、実際に人間とか蜥蜴人とかではありませんわ。ただのギミックなのでしょうね。だからある程度進むとか、条件を満たせば出現すると思われますの」
「量産型の使い捨て生体機械は脆いわねぇ」
かぐやは地面に落ちている残骸を指で突っつきつつ、光を浴びせている。
「ふむふむ……毒は残留してないわね。無害化が早いんでしょうね」
どうやら光学的分析を行っていたようだ。
「くすくす、どうしますか? 風が吹いてきた方向を調べますか? メビウス様が逃げた方向を辿りますか……」
「進んだ方向を辿りましょう。毒ガスを浴びせられた時、防ぐ方法がないんで……ないですよね?」
「散布方法によりますわ」
華澄は端的に告げた。
(嘘を吐かねぇのは誠実だが不安な気分になる返事だな)
しばらく進むと集落に辿り着いた。馬鹿な。さっきぐずぐずになった跡地が……とはならない。華澄が説明した通り、自動ポップするギミックなのだろう。
証拠に、人型生物も蜥蜴人型生物も眼や鼻がなかった。口だけしかなく。どれもこれもが一定の挙動を繰り返している。互いに向き合って談笑のような動きをして、別れて、また同じ対象と同じ動きをして。不自然な、つまり正確過ぎる身体の動きでトンカチを延々と叩き続けていたりする。
機械以上に、非生物感が凄まじいと鏡夜はバレッタと比較する。〈刈宮〉で稼働しているコレリエッタ氏の方がまだ命を感じる。
すると、鏡夜の前に蜥蜴人型のソレが来る。蜥蜴人は地面に林檎の絵を描いて、口をぱくぱくと動かし、地面を引っ掻いている……。
「たらいまわしのおつかいクエストですか。林檎を探し出せば、貴方たちから弓矢が貰えて、その弓矢で鳥? を落とす。……林檎を取ってくるにも、また作業感溢れるおつかいがありそうですこと」
鏡夜は口に出した内容によって、さらに意気消沈する。……面倒くさい。毒ガスも殺到してくる危険地域で広くて煩わしく危険な熱帯雨林型ダンジョンを行ったり来たり……苦労が予測出来て憂鬱を超えて陰鬱になる。
「くすくす、メビウス様はここを確認してから、下へ降りる階段へと逃げたようです……」
バレッタが報告する。
すると桃音が突如、枯れ木に足を駆けると、一直線に登って行った。
「ん? どうしました桃音さ―――」
鳥だ。空に鳥いる。木々が枯れているようで広く見晴らしがよくなった空に、点があり――点が移動している。
「間違いない、ボスです!」
鏡夜もまた桃音に続いて、桃音と同じ木を駆け足で登った。即座に頂点に着く。毒ガスを浴びきっていないおかげでまだギリギリ木の体裁を保てているような、少し不安のある木だった。が、二人の人間が乗っても折れることはなかった。
桃音と並んで鏡夜は巨大な鳥を観察する。
毒々しい色をした鳥である。汚濁した濃い緑の嘴を持ち、縮尺が数百倍にもなったオオハシが、空を滑空していた。不安を呼び起こす身体の比率と色だ。濃綠と濃ピンクとくすんだ黒と茶色が混ざったような――――怪鳥である。
第二階層、【密林】のボスは、怪鳥だった。
華澄も地面から確認したのか声を上げる。
「確認しましたわ。なんだ、捻りもなくいますのね! バレッタ、スポッターを!」
「くすくす、ラジャーです」
華澄はどこからともかく狙撃銃を取り出すと、立ったまま狙撃銃を構えた。バレッタは補助するように狙撃銃に二本の棒を取り付けて地面に設置し、土台とする。
狙撃銃が固定される……。
鏡夜は華澄と怪鳥の両方を視界に収める。距離がかなり遠いように見えるのだが……。
「くすくす……距離六千……五千ハ百……五千五百……風は北東に向かって……五千二百……風速に変化……対流……」
「撃てるんですかね、こんな離れてて。しかも空にいるのに」
「……?」
桃音は不思議そうに自身が乗っている木に手を当てた。
鏡夜も桃音に倣って足場にしている木へ注意を向ける。
……揺れていた。微細だか、ガサッ、ガサッ、と一定の周期で揺れている。
揺れが大きくなっている。
「……私、こーゆーの映画で見たことあるんですよね」
「……」
「ドン、ドンと揺れが大きなっていって、何が起こっている!? ……と周囲を見渡してみれば……」
鏡夜は顔を上げて、空ではなく、地平線へ――視線を固定した。バレッタが言う。
「危険。気圧の上昇、大質量接近」
華澄はスコープから目を離して、鏡夜たちの方へ関心を向ける。
鏡夜が、呟く。
「巨大な化け物が地面を揺らして、迫っていたっていう―――」
「……!」
鏡夜と桃音は驚愕に一瞬、身を固めてしまった。かなり距離が空いているにも拘らず、鏡夜と桃音は、森のどの木よりも数十倍大きな巨大機械兵器を見上げた。
Quest“Deadend”の刻印が、銅の腕に刻まれている。カーテンコールよりもなお大きく、ズシンズシンと地響きを鳴らしながら歩く銅の巨人。
鈍く光沢を放つ生き物ではない無機物。生体部品はあれどまさしく機械兵器――。すなわちクエスト『デッドエンド』。
〈Q‐z〉の新たな刺客だった。
「クエスト『デッドエンド』!! 巨大機械です! 来てます!!」
クエスト『デッドエンド』が両腕を曲げて構える――。鏡夜の視覚はクエスト『デッドエンド』の全身に空いた小さな、大量の穴を捉える。群衆恐怖症なら卒倒するほどに並んだ穴と穴。風の音が遠く、クエスト『デッドエンド』から聞こえる。
鏡夜の頭の中に、数々の言葉と光景がよぎる。毒ガス、風。死神の吐息。
「逃げましょう!!」
鏡夜と桃音は木から飛び降りた。直後、暴風が先ほどまで鏡夜と桃音がいたあたり、木の頂上を吹きすさぶ。揺れる木々は一瞬にして変色し、ボロボロと一瞬にして永遠の時が流れたかのように劣化した。
「無色ッ! 透明のッ! 毒ガスッ! ですか!」
(無味無臭の毒ガスをまき散らす巨大兵器?! 性格が悪すぎるだろ!!)
視界の先では華澄が狙撃銃を締まって地面に伏せようと膝を曲げている。バレッタはクエスト『デッドエンド』を観察している。かぐやは鏡夜の方へ駆け出している。
かなりのピンチだ。シンプルな危機だ。判断ミスをしてはならない。
「失礼ッ」
「……んっ!」
鏡夜は華澄をお姫様抱っこすると即座に走り出した。桃音は鏡夜に並走し、後からかぐやとバレッタの人形組がついてくる。
「すいません、緊急事態でしたので――」
「大丈夫ですわ」
鏡夜は華澄を見下ろした。そして、すぐにまずっ、と、両手を《鏡現》で覆った。手袋で華澄を触ってしまった。服越しでも状態異常は発症してしまう、と鏡夜は走りながら華澄を紅い瞳で観る。
「………」←弱点:【なし?】
(ハテナっってなんだよ!!!!!)
まったく平常で冷静で――そして薄っすらと頬を赤く染めている華澄の弱点は、変化はしたが増えなかった。状態異常が効かなかったとするのなら、本当に人間なのか疑うところなのだが、鏡夜の超人的な五感は、彼女が人間であると伝えている。
変化はした。状態異常は、確かに、効いては、いるのだろうか?
だが、気にしている暇はない。
全身に走る恐慌。背後から近づく、唸るような風の音。
「皆さん! 私の傍へ!」
猛ダッシュしながら、全員が集まったのを確認すると、鏡夜は後方に限界まで広く、大きく、四枚のストックを使って《鏡現》の防壁を作った。
ゴウッ、と毒の空気が殺到する。ボロボロと何かが崩れる音がする。振り向く暇もない。
かぐやは後ろ走りをしながら、防壁の横へ小さく出て、クエスト『デッドエンド』に向かって、片手を伸ばし、光線ビームを放った……が、『デッドエンド』に当たる前に、光が空気中で拡散してしまう。
「空気の分子構造が大気と違うわ、拡散しちゃう」
そう言ってからかぐやは――暴風を喰らった。
「かぐやさん!?」
「大丈夫よ我が君、ほら」
かぐやは片手を鏡夜へ見せる。炭化してぐずぐずに崩れていった。ぷらぷらカジュアルな十二単の袖、布だけが揺れていた。
「どこがです!?」
「片腕欠損はデフォルトの自動修復で治るわ。セーフ」
「アウトですけどね! もう逸れないでください!」
「はーい」
かぐやはバレッタと同じように、綺麗に鏡夜と桃音の後ろについて走るようになった。
鏡夜たちはとにかく死ぬ気と死ぬ気と死ぬ気で、第二階層から脱兎のごとく脱出した。
第一階層〈荒野〉で鏡夜は華澄を地面に降ろしてから息を荒げて屈んだ。
残念ながら鏡夜には疲れないという常識外れの特質はついていない……。
「あれは、無理では?」
華澄は胸に手を当てて小さく深呼吸して、気を取り直してから言った。
「確かに、今ある手札では足りませんわね。……根本的に意味がわからないですわ……。クエスト『カーテンコール』よりも数倍巨大なものを、どうやってこんな短期間で搬入しましたの……? クエスチョン『パレード』は人間大でしたので、まだ常識の範囲内ですが……」
華澄は頭を抱えている。
「くすくす……対策が早いですね。初見殺し、新たな能力と対応の応酬が一パーティと機械兵器群で成立している時点で、前例がない埒外かと……。未来観測機械の使用許可をアルガグラムに要請しますか?」
「蜘蛛の魔女が許可するわけありませんの……よし、会話で冷静になりましたわ。よくやりましたのバレッタ」
「くすくす……」
バレッタは華澄へ可憐に一礼した。
鏡夜は立ちはだかってきたロボットたちを思い返す。巨大機動兵器にはQuest。人型機動兵器にはQuestion。
「巨大兵器はクエストシリーズであり、人型ロボットはクエスチョンシリーズだと」
鏡夜の呟きに華澄は頷いた。
「〈Q‐z〉の名前をアレンジした、識別コードですわね。エーデルワイスのネーミングセンスは優れているのは認めざるおえませんの……あの魔術師……ええ……今回は、わたくしが対策を思いつきましたわ」
「え、マジです? 早くないですか?」
「貴方に早いとか言われたくないですわ。ふふ」
そう笑って両の手の平を合わせて、パチンと手を叩いた。パーティメンバー全員が華澄に注目する。崩れて消失した片手が回復し、性能を確認するように手の平を閉じたり開いたりしていたかぐやも立ち上がって華澄へ顔を向ける。
「ただ、準備に一日かかりますの。明後日まで、しばらくお待ちくださらない?」
「……願ってもないですが」
鏡夜では毒々しい銅の巨人をどうにもできない。
「何かお礼をするべきでしょうか?」
「………」
華澄は驚いた。鏡夜は華澄と目を合わせて首を傾げる。
「いりませんわ。わたくしたち、互恵で……協力しあっておりますから。チームプレイにいちいち貸し借りをしては、煩わしいだけですの」
「なるほど」
「ていうか我が君の方がよっぽど活躍してるし白百合華澄を助けてるんだから、そうなると都合が障る――悪いだけじゃない?」
「かぐやさん、シャラップ」
「シャラッ……ああ、命令? 了解」
かぐやは口を糸で縫い付けるような動作をして、沈黙した。華澄は肩を竦める。
「それもありますわ」
「別に誤魔化してもいいのに……」
「信頼関係に嘘を吐くほどアマチュアではございませんの」
「プロ意識ですか」
かなり誠実な。しかし、今日、明日に第二階層にチャレンジできない以上、鏡夜は、後回しにしてきた、たくさんの事象を消化する必要が出てくる。
「いったんダンジョンから出ましょうか」
さて、何をどうするのか……考える必要がありそうだ。
決着の塔を脱出して、攻略支援ドームエントランスに戻る鏡夜一行。
「ではわたくし、本当に事務的な仕事をしてまいりますの。ご要望があるなら、考慮いたしますが、何かございます?」
「特には――、ああ、そうだ。バレッタさんに聞きたいんですが魔王様ってどういう方なんですか?」
バレッタは歌うように語る。
〈ほすてっどすてーつおぶでめびぃる? ユナイテッドツテイツオブアメリカ……〉
「H・S・Dって漢字が書くと、どう書くんですか?」
「こめと書いて米国です。Demevilのmeが変化して米です。名称自体を全て漢字にすると……」
バレッタは自分の手の平を鏡夜に向けるとさらさらと指文字を描く。
「出米毘留です」
「米国……ええ、知ってますよ、あの、東の海を越えた先にある大きな大陸ですよね。ええ、ありがとうございます」
米国大統領が魔王として契国(形も位置も日本)でダンジョンアタックしてる、その理解で正しいのだろう。
意味がわからすぎて怖い。だが納得し向き合え――会わないといけないのだ。
外交筋に根回しして会談の申し入れとかしなくていいのか。と鏡夜は内心乾いた笑いをしながら心の中でジョークを飛ばす。
華澄はお礼を告げた鏡夜へ別れを告げる。
「では、何か突発的事象があればメールを送って下さいませ、考慮はしたしますの。では」
華澄はバレッタを引き連れて鏡夜とかぐやと桃音と別れ、受付裏側の扉へと入っていった。
鏡夜は、空いた時間に何をしようか考える。やることはありすぎる。全部やるのは、少し難しい。
鏡夜は、受付の染矢に尋ねた。
「私、今まで一度も魔王様にお会いしたことないんですけど、いらっしゃいま
す?」
「あーと、ジャルドさんは夜に活動していらっしゃいますので……あと二、三時間待つ必要がありますかね」
「うーん、なるほど……? 夜、夜ですかぁ」
となると……鏡夜は魔王へ自身にかかった呪詛の内容を尋ねようかと考えていた。そこまで思い出して、ふと、忘れていたことがあったと気づいた。
そういえば、自分の能力の中で一つ、わかっているにも関わらず深く調べていないものがあった。
「染矢さん、大きな鏡がある部屋ってあります?」
「ご自分で出せばいいのでは?」
びっくりした。明け透けに断ち切ってくるな。
「私の、能力ではなく、化学工場とかで生産されているような、シンプルな鏡、ミラーでお願いします」
「…………トイレですかね」
「ああ、なるほど」
鏡夜は一つ頷くと、お礼を言ってトイレに向かった。
じゃあトイレ行ってきます、と鏡夜は桃音とかぐやに行って男子トイレに入り――すぐさま、ばつが悪そうに出てきた。
「鏡が小さいんで」
鏡夜は少しだけ恥ずかしそうに、男子トイレと女子トイレの横にある多目的トイレに入った。思った通り、かなり巨大な鏡が設置されている。理想通りだ。
鏡夜は多目的トイレの鏡に手を突っ込む。いつか鏡の中に手を突っ込んだ時、鏡夜の手は鏡の中に入った。
検証だ。
いつかと同じように、手を鏡の中に突き入れる。
……しばらく待ってみるが、特に痛みや違和感はない。慎重に、肩まで突き入れる。
次にもう片方の腕を。
(………よしっ)
鏡夜は、ついに意を決して、鏡の中へ頭を突き入れた。
鏡の中は暗闇の中に、たくさんの窓が浮いているような空間だった。鏡夜は茫然とする。
「鏡の世界も異世界っていうのかぁ?」
鏡夜は一人呟いて、内側から鏡の枠を掴むと、全身で鏡の中に潜り込んだ。
ふっ、と、床もないのに鏡夜は暗闇の中に立つ。
今まで一番ファンタジックで、オカルトで、意味不明な出来事だ。異世界へ来た一番最初の始まりを除けばだが、と、鏡夜は振り向く。
鏡の中から多目的ルームを覗く。
まったく見覚えのない二十代中盤ほどの契国人女性が唖然とした表情で鏡の中にいる鏡夜を見ていた。
「……こんにちは!」
鏡夜はとりあえず笑顔で挨拶をした。
「……嘘でしょ! 嘘でしょ!? なに、なにこれ!? 何が起きてるの!?」
「………貴女、誰です?」
鏡夜はとりあえず首を傾げて尋ねる。しかし、多目的トイレに入った女性は心底戸惑い慌てるだけだった。
「ありえない!! 異界技術なんて話じゃない! 基礎の生態系もないのに! 神代でも絶対にこんなことは起きない―――――!!」
「あの……」
戸惑う鏡夜の中で、今までまったくなかった、第六感のような何かが鏡夜に
言った。
鏡夜は、鏡に映る光景を操れる。と。
(気持ち悪)
率直な気持ちだった。まるで何度も何度も暗記して身体に覚え込ませた常識が、意識することもなく思い出せるように、鏡夜は、自分の能力を理解した。
……こんな、第六感で理解できるなら、最初から全ての呪詛の内容を理解させるべきだろう。
まるで、鏡の中に入り込む能力だけが、他と違うもののようだ。
鏡夜はパチンと指を鳴らした。周りの暗闇が変化する。
鏡夜の周りの空間が変化する。暗闇の中に、パチパチと暖炉が燃える洋風の部屋で鏡夜は真っ赤なロッキングチェアに腕を組んで座った。
「私の名前は、灰原鏡夜と申します。貴女の名前は?」
「……!? ……!?!?!? なにこれぇ?!」
「はぁ……」
鏡夜は鏡に映るものを、一般的な鏡と同じにした。まるでマジックミラーのように、向こう側からはただ多目的トイレと自分だけが映るようになる。
「ちょ、ちょっと! ちょっと待って!! ねぇ、どうやったの!」
鏡をどんどんと叩く女性を見ながら、どう対応するか鏡夜は腕を組んだまま悩む。ロッキングチェアを何度も揺らしながら……うん、スムーズに会話するのは無理だな、トイレだし。
女性とトイレで会話するのは、マナーとして終わってる。と鏡夜は自分を納得させた。洋風の部屋を暗闇に改変し、鏡夜は、鏡の世界に戻る。
そして一度も振り返らず、暗闇の中を放浪する。歩いているのが飛んでいるのか漂っているのか。どうにも鏡夜が感じている触感は、筆舌に尽くしがたいものだった。
暗闇の中の窓には多種多様のものが映っている。そしてどう考えても決着の塔攻略支援ドームの中にある鏡に映る光景だった。
窓の大きさも、ドームの中にある鏡の大きさに準拠している……。
(どうも鏡の世界を、移動できるらしい。操れるらしい。なんて異能だ。まさに、鏡の魔人だ。言葉よりもなお、よりいっそう)
鏡夜が浮かぶように暗闇を移動していると、まず見えたのは――。
「華澄さん?」
鏡夜は、座っている華澄の姿が映る窓に近づく。華澄が携帯で何かを話している。
「ですから―――これは支援になりませんの。なぜなら、わたくしは、“買う”と言っているんですのよ?」
「―――! ―――!」
電話口の相手は何事かを叫んでいる。だが、何を言っているかはわからない。
「はて――、簡単な話ですわ。アルガグラムのものだと配送に時間がかかる。わたくしが求める水準に適うものは、貴方のところの――機体だけですの。わたくし、実は小耳に挟んだのでしたけれど――久竜さんの件について、続報が」
「―――……!」
「いいんですの? このイベントをリークされた場合……確実に、めちゃくちゃになりますけれど」
「―――?」
「わたくしたちは大丈夫ですわ。いえ、大丈夫にしますの。貴方の失敗であり、我々の失敗ではなく――勝手にやってしまえばいいだけですから。脅しになりませんの。さぁ、さぁ、さぁ、わたくし――実は、答えを、一つしか聞く気がないんですのよ? 灰原さんを、待たせるわけにはいきませんもの。」
「―――……」
穏やかに、静かに、冷酷に、華澄は交渉をしていた。鏡夜に先ほど告げた通り、準備をしているのだろう。
具体的に何を話しているのかは雲をつかむように読み取れないが――。対策でもしているのだろうか。暗号や符号で会話をしているのかもしれない。
あまり仲間を長く観察するのも申し訳ないと、鏡夜は華澄の控室の鏡から離れた。
鏡夜は思いついた、ひたすら上に上がった。決着の塔の中に、鏡に類するものが在れば――そして上階であればあるほど―――決着の塔の攻略を効率的にできると思い至ったからだ。
しかし、ある程度の高さまで来ると、すっかり窓がなくなってしまった。
……どうやら、決着の塔に、鏡の出入り口はないらしい。
もしかしたら決着の塔のセキュリティによって、外側からの能力干渉が制限されているのかもしれない。
いいアイデアだと思ったのだが、と鏡夜は残念がった。
収穫がなかったので、下に降りていくと、一番最初に通りがかった窓にミリア・メビウスが映ったので、鏡夜は、移動を止める。
……あと一人だけなら、と鏡夜は、窓からミリア・メビウスを覗く。
ミリア・メビウスは、最上階のホール、ステージの上に座ったままだった。
しかし、彼女の座り方は極めて………横柄だった。肘掛けに肘をかけて、頬杖をついて、足を投げ出して、中空を薄目で見上げている。
修道服を着ているのに、まるで覇王のようだった。
「そうだ」
穏やかな質に反して、恐ろしく重い声だった。鏡夜は彼女の様子を鏡越しに窺う。
「私は回帰する。私は覚えている。テレビに映る美しい聖女。あの輝き。あの魅力、あのアイドル性! 世を導くは聖女である。世を救うは聖女である」
ミリア・メビウスは、世界そのものへ覇気を叩きつけるがごとく宣言した。
「―――世を統べるは聖女である。ああ――、私はあの美しいセピア色の憧れを回帰する」
そう言って、ミリアはふん、と鼻を鳴らした。
「ファンがいないと張り合いがない」
ミリアは、何かを求めるように、懐かしむように目を細めた。
(……回帰は回帰でも、自分の理想へ回帰するってか?)
なるほど、どうも、灰原鏡夜とミリア・メビウスは、願いに対するスタンスが似ているらしい。願いを自分のためにしか使うつもりがない。親近感と――なにより、こいつに願いを叶えさせてはいけない、確信だ。
鏡夜の願いは、自分にしか向かっていないが、ミリアの願いは世界に向かっている。世を統べると呟くやつに、世界の命運を渡すわけにはいかないだろう。
「笑える話だ。世界の命運? どうでもいいと言ってる奴が、世界征服を目指す奴を気にするのか?」
鏡夜は苦笑いをしながら、ミリア・メビウスの鏡から離れた。
ふと、鏡は思いついて、鏡の中の世界をこねくり回して、真正面に来た窓を通った。
鏡夜は桃音の家のバスルームの鏡から頭を出した。
「距離の制限もねぇのか」
無法だ。今までの、どんな能力よりも無法で逸脱して異常で無体だ。鏡を媒体にして、どこにでも移動できるなんて。
ていうか、鏡の世界をしっかりと検証していれば……いれば………。
「〈Q―z〉のボス、キー・エクスクルに繋がる鏡よ来い!」
しかし、なんの反応もなかった。
さて、どちらだろう。あいまいな情報では、鏡の移動ができないだろうか。もしくは、キー・エクスクルが、鏡夜が移動できる場所にいないのか。
「現在の桃音さんの場所!」
しかし、なんの反応もなかった。具体的に、明確に、場所を意識しなければ、ひとっ飛びで移動することはできないようだ……。
「ドームの多目的トイレ」
とやると、鏡夜は即座に、多目的トイレ前の鏡の世界に移動した。
先ほどと同じ配置に鏡の窓がある。どうやら意識した一つのポイントを起点にして、周辺の鏡の位置や窓を、暗闇の世界から確認できるようだ。
こんなもの、デメリットにもなっていない。有益でしかない能力だ。
さて、多目的トイレ以外から現実世界に帰還する必要があるが、鏡夜が通り抜けるに足る大きさの鏡はなかなかない
右往左往して、あっちこっちを探し回っていると、ひときわ巨大な鏡を発見した。
(こんな大きさの鏡があるなら染矢さんが案内しねぇか?)
しかし、鏡夜の前には鏡がある。他に通り抜ける窓もない。と鏡夜は覗きんだ。
白い壁? と照明が映っている。人の影はない。……鏡夜は、よし、と鏡の窓を通り抜け。
鏡夜は、決着の塔攻略支援ドームにある風呂場の湯船から飛び出すと、身体を一切濡らさずに、湯船の縁に両足で降り立った。
………背後に、生き物の気配がする。鏡夜は咄嗟に振り返った。
恐ろしいほどに背が高く、恐ろしいほどに頑強な肉体をした、人の形をしていながら異形としか思えない男が、湯船に浸かっていた。
……凶悪な表情を浮かべる目が濃すぎる渦巻く闇の魔族がいた。瞳がまるで闇の嵐のごとく渦巻いていた。
魔王の肌には入れ墨――なのだろうか。びっしりと、黒い図形が並んでいる。もとの肌の色も黒いのに、入れ墨はもっと黒かった。まるで光源のない闇のようだった。
そしてもちろん、鏡夜は彼に見覚えがあった。
「これは、これは。魔王陛下。お会いできて光栄です」
人外の代表、決着の塔挑戦者最後の一名――。間違いなく、異形、人外の王。“魔王”だった。いい湯だな、みたいな場所で初遭遇するべき者ではなかった。
鏡夜は優雅に帽子を取って一礼しようとして、帽子が取れないのを思いだした。やばい、自分が感じているよりも絶望的に焦燥している。しかし、気取られるわけにはいかない。舐められてはいけない。動揺を読み取られるな。
だから、鏡夜は微笑を浮かべて大袈裟なまでに演技めいて告げた。
「ご入浴をお邪魔して、申し訳ありません、すぐに失礼しますね」
鏡夜は革靴で(公共の風呂場に革靴で入らないといけないとは!)湯船の縁
から床に降りると、自分でもありえないくらいと思うほど、礼儀正しい所作で、風呂場から外に出た。
鏡夜はとりあえず無人の脱衣所を出て廊下に戻り一息ついた。鏡から出るはずなのになぜ風呂場の水から出たんだ?
鏡夜の記憶は、魔王が入っていた湯船の中身を思い出す。透明ではなかった。綺麗に天井と照明を映す――緑色に染まった水だった。
ナルキッソスは水面に“映る”自分に恋をしたと言う。……水も鏡扱いらしい。
(無法か?)
鏡夜の発想すら超えて能力の応用性が高すぎた。
……だが、調べた甲斐はあった。得た情報もあった。……得たリスクもあった。次に魔王に会う時が怖い。ものすごく、どういう意味付けをしたらいいのかまったくわからない遭遇をしてしまった。
最悪、湯船魔人呼びされてしまうかもしれない。
けれど魔王を避けるわけにもいかない。呪詛に悩まされる鏡夜は、呪詛の最高峰の存在である魔王と会話をする必要がある。
逃れられないタスクである。
鏡夜は、はぁ、と憂鬱になりながら、ドームを下に降りていく。風呂場は五階にあったので、一階まで戻り、多目的トイレに戻る。
パパッと検証を終わらせて桃音とかぐやのところにすぐ戻るはずだったのに、探るべき懸念事項が多すぎて――かなり時間がかかってしまった。
もう夜も目前だ。染矢の言う通り、夜に活動している魔王がドームに来ていた以上、鏡夜の体感よりも待たせてしまったのは明らかだ。
憂鬱である。
鏡夜が多目的トイレ前に戻ると、桃音が女性の襟首を掴んで宙吊りにしていた。鏡夜には女性に覚えがあった。多目的トイレで会話にならなかった人だった。
「……なにしてるんです?」
「……さあ?」
かぐやは肩を竦めた。桃音は鏡夜が廊下から来たのを確認すると、女性から手を離した。女性は……気絶していたのか、床へ横になって倒れてしまった。やばい音はしなかったので、一応頭や身体を打ち付けはしていないようだ。桃音が気を遣ったのだろうか。女性の健康状態に気を遣えるのなら宙吊りをしない気遣いもできたような気もするが。
「我が君どこ行ってたの? 女の人が豪華な厠……トイレに入って行って、止めようと思ったら、……女の人が騒いでるだけで、我が君はいなくなってたし。不語桃音が、突然女の人を無言でしばきはじめたし」
「あー」
(どこ行ってたんだろうな)
「……鏡の中まで」
「かがみ?」
かぐやはものすごく不思議そうな顔で鏡夜を見た。疑問符を飛ばされても、そうとしか言いようがない、と鏡夜は思った。
「とにかく、そちらの……誰かさんを、病室か病院か保健室かへ、お運びしましょう……受付に行ってきますね」
鏡夜は駆け足で受付に向かった。魔王に会うのを先送り云々の前に、やはり、人道的配慮からそうすべきだからそうするために。
受付の染矢に事の次第を伝えたところ染矢はすぐに行動してくれた。自動担架マシーンと一緒に染矢オペレーターがトイレ前に倒れた女性を回収しに行く。鏡夜も同行したのだが……。染矢は表情を引きつらせていた。マジか、こいつらマジか、みたいな言葉が顔面に張り付いていた。
しかし、染矢は特に言葉を荒らげず、マシーンに事務的な入力を素早く行い、女性を担架に乗せると(アームが丁寧に持ち上げて自分のボディに寝かせた)。
染矢は女性を医務室へと運ぶ。鏡夜たちも医務室へとついていく。
……いつかお世話になるかもしれない施設であるし、行ってみるに越したことはないだろう。単純に、心配でもあるし。野次馬根性であると指摘されれば、その側面もあるが。
医務室は想像していたよりも巨大だった上に複数あった。一つの扉の前を通る。壁に掲げられた名札には、かつてバレッタより聞かれた英雄パーティの名前が晴水を除いて並んでおり……。
久竜晴水たちのパーティが、医療ポッドの中で寝かされていた。
次の部屋を通り過ぎると、今度は見たことも聞いたこともない四つの名前が名札に掲げられている。
中をちらりと覗いてみれば……異形が並んでいた。。
(確か華澄さんが、『カーテンコール』に魔王の四天王が磨りつぶされたってつってたな)
異形しかいないなら、推測は間違いではないだろう。
そして染矢は、第三の部屋、他の二つと比べても小さい、医務室の医療ポッドに女性を寝かせた。
「よし――と。では、灰原さん、何があったんですか?」
「少々説明しづらいですけど……かぐやさんお願いできます?」
「りょーかい、我が君」
そしてかぐやは、先ほど鏡夜にした説明を同じように染矢へと語った。
染矢は頭を抱えて溜息を吐く。
「つまり、こちらが誰か、ご存知ないと」
「そうね。突然男子が入った厠に突入する、ヤバい人としかわからないわ」
「喜連川さん……。簡単に説明するなら、久竜晴水さんのパトロンであり、契国に強いコネクションを持つ要人……です」
「なんと」
鏡夜は驚く。そして尋ねる。まず気になるのは。
「私の塔の挑戦に、なんらかのデメリットがあります?」
染矢は数秒黙考して言った。
「ないです。貴方は別に何かに所属しているわけでもないので――。塔の攻略者に圧力などあってはならないわけですし」
染矢は冷たい瞳で、目を回して治療ポッドに横たわる女性を見下ろしていた。
「わかりました。灰原さん。後は私がなんとかしておきますので、どうぞご帰宅していただいても大丈夫ですよ!」
「うん、帰った方がいいんですか!」
鏡夜はむしろ嬉しそうな顔で染矢の言葉で反応した。
「え? あ、ジャルドさんに会うんでしたっけ? ご自由にどうぞ」
「……ありがとうございまーす」
正直、今日魔王に会うのが気後れしていたので鏡夜は物憂げな顔をした。染矢は、鏡夜の謎の感情的反応が理解不能なので目を白黒させていた。
「我が君、会いたくなかったら会わなくていいんじゃない?」
「時間がもったいないですし……? せっかくですから?」
そう言って、鏡夜は染矢に礼を言うと、桃音とかぐやを連れて医務室から退室した。
魔王が先ほどまでいた浴場前廊下をあちらこちらと探すが、魔王の影も形もなかった。無策であちらこちら探すのも面倒だと、鏡夜が悩んでいると……。
桃音が突然、鏡夜の頭を掴み窓に押し付けた。
「へぶっ……」
鏡夜はなんだ、と桃音へ不服そうな表情を向けるが、桃音はガン無視して窓の外を見ている。
かぐやはほわほわと笑いながら人差し指を伸ばして、桃音に向ける。しかし、桃音はガン無視して窓の外を見ている。
「………あ、かぐやさん、少し待ってもらいます?」
「なんで?」
かぐやは平常通りの、人間味のまったくない可憐さを保ったまま人差し指を光らせている。光が強くなっていく。鏡夜が止めなければ、かぐやの光線は桃音に向かって発射されるだろう。
「ああ、……魔王様、見つけました」
と鏡夜はかぐやの真似をするように人差し指で、窓の外を指さした。訓練場の広場で独り、鏡夜へ指を指して笑っている魔王がいた。魔王の隣には、黒い修道服に赤い稲妻のような線が走った女性がぴったりと張り付いている。
桃音は鏡夜が見つけたと言った後に、鏡夜の頭から手を放す。窓に押し付けられていた顔を離して、鏡夜は溜め息を吐いた。
……だが、もう時間を引き延ばせない。鏡夜は魔王に会うために訓練場へ向かった。
「―――なんで存在できてんだ? お前」
開口一番、魔王が鏡夜に言った言葉だった。
「まさか生存どころか存在すら疑われるとは」
存在に疑問を呈されるほど湯船から突然現れたのが失礼だったのだろうか。
うん、失礼である。もし鏡夜が風呂でリラックスしている時に不躾な闖入者が湯船から出現したなら、鏡夜は恐慌、逃走のち激怒する。
「改めまして、はじめまして、魔王陛下――灰原鏡夜と申します、こちらはかぐやさん、不語桃音さんと」
鏡夜は、とりあえず落ち着いて挨拶をする――。探りつつ、だ。魔王は口をへの字に曲げて言った。
「ジャルド。ただのジャルドだ、んでこいつは――」
魔王はべったりと自身に張り付いて幸せそうに笑っている黒生地に赤い稲妻模様が走る修道服を指さして言った。
「アリアだ」
「はぁ、どうも、初めまして」
反応に困る。たしか四天王とかいう、魔王の配下は全滅していたはずだ。話題にも上っていなかった。となると状況証拠的に……情婦とか愛人とか? 奥さんだったら申し訳ないが。
魔王は鼻を鳴らす。
「魔人、魔人と前評判が五月蠅かったが、実物はどんなもんかと思えば、期待以上を超えて異常じゃねえか」
「私、どんな風になってるんです、そんな風に言われる筋合いってあります? ホント」
存在疑問に加えて異常呼ばわりは、流石に少し傷つく、と鏡夜は拗ねたような表情をする。
「そりゃ当然だ。俺が置換してんのは肌だけだがァ、お前が差し出してんのはなんだ? お前自身すら危うくなるほどだろうよ。そんなもん一個でも過剰――いや――」
魔王はアリアに待ってろと伝えて離れると、ずかずかと鏡夜に近づき、鏡夜が身に着けている帽子を鷲掴みにする。身体の大きさが異常なほど違う。手が巨大で、鏡夜の頭がすっぽり包まれてしまった。
魔王は驚いたように叫ぶ
「食い合わせしてんのか!!」
「……食い合わせ、ですか?」
(手が帽子よりでかくて魔王の顔が見えねぇ)
魔王の手の下にいる鏡夜は薄暗くなった空間で尋ねる。
「この帽子は【弱点看破/言語忘却】だよな」
「―――ノーコメントで」
秘密とはまではいかないが、殊更明言していなかった特殊能力を直球で指摘されて、鏡夜は誤魔化した。誤魔化したというよりかは、わからないだけだが。
魔王は続けて言う。
「弱点を透視する能力を得る代わりに言語を失くす。弱点を見抜けるが誰かに伝えられない。クソみてぇに性格の悪ぃ呪物だが……お前、喋れてる。意味がわからないバケモンかと思ったが、この、これだ」
魔王は鏡夜の頭に乗せていた手で、今度は白いシャツの襟を摘まむ。
「シャツは【全言語習得/治癒不能】だ。あらゆる言語を操れる代わりに治癒能力を失くす。万の言葉を操れるが、一つの傷すら治せない。ヒャハハ」
魔王はおかしそうに笑う。
「つーまりーだ。言語を失くしちゃいるが、そこに全言語を操るっつー恩恵を被せて実質踏み倒してんだよお前。おぞましいな、イカれてる。どんな馬鹿みてぇな不具合が起こるかわかったもんじゃねぇぞ。規格が違うコンセントを漏電を前提にして無理やり使って感電死したり電気回路が壊れて爆死しないように祈るようなもんだ」
耐えきれないとばかりにニヤニヤと、魔王は言った。
「お前の身体、もう六割以上人間でも人外でもねぇぞ――こりゃもう呪詛の擬人化だな!!!!」
「―――例えば、私の眼とかですか?」
「ああ? ああ―――そうだなぁ、流石に神代の最高峰だから効果しかわかんねぇし、それ以外はブラックボックスだが、推察はできる。なにせたぶん俺と同じだ。俺は肌を置換してるから――ほら、こんな風に入れ墨だろう? 変わるんだよなぁ。弱点看破っつー機構がお前の目に入ったのなら――変わるんじゃねぇの?」
「なるほど、なるほど」
鏡夜は全身が泥水に使ったような最低最悪の気分のまま、最高の微笑みで何度も頷いた。
理屈としては、納得できる。
呪いは生体機構における“何か”とトレードオフだ。
呪われれば呪われるほど通常の身体からかけ離れる。
既存の肉体を変質させて魔法のごとき奇跡を起こす。進化と退化を引っ掻き回す生体操作。
灰原鏡夜は、驚異の、半分以上が完全に呪いと化してしまっている。
瞳や髪の色が変わっているのはそのためだ、と。
あまりにも呪われれば生活どころか生存も危ういのだが、呪いの“食い合わせ”の奇跡的バランスによってデメリットをほぼ踏み倒している状態だと。
突然変異、呪詛の申し子。そうかそうか―――。
「お前が俺の国出身者だったら、人外の王なんて定義をぶっちぎって魔王になってたかもな? 流石に俺も呪いで呼吸して呪いで歩行して呪いで生存するのは無理だわ。つーかどうやったんだよマジで。現代に生きてる神どもはもう本当に落雷を喰らうよりもごくごく低頻度しか呪詛をしねぇのに」
「さっぱりわからないんですよ」
許さない。鏡夜は魔王へ優雅に返答しながら、大激怒を完璧に抑えきって、心底、魂の奥底からそう思った。自分を呪った誰かへ――何かへ――、骨の髄まで、目にもの見せてやる、と。鏡夜は、彼の人生で一度もなかった本気の怒りを覚えた。軽薄で、弱さに肯定的な鏡夜の器をぶっちぎる、圧倒的最悪な現状を確認して、感情が大荒れの海を蒸発させそうなほど、沸騰していた。
「ある日、気づいたら、こうなってまして――、だから、呪いを解くために此処にいる次第です」
「ふーん? 神話みてぇだな、呪いを解くために冒険するなんて」
そう言って、魔王はニヤニヤと言う。
「〈決着〉を選んだのは、英断だよ。真の魔人。お前の呪詛は俺にも、誰にも解けねぇ。何かまかり間違って、どこぞの観測不能な神様がお前の呪いを解こうとしても――無理だよ。断言する。支配級かつ解呪に長ける神ですら、お前の呪いは解けない。こんなもん、塵になって世界に散乱した死体をよみがえらすような、不可能をさらに不可能にするような、どうしようもなさだ。」
神代ですらありえない。実現できないだろう圧倒的呪詛量。呪われ過ぎた者を魔人と呼ぶが、呪われ過ぎという形容すらぶっちぎった圧倒的呪われっぷり。まさしく真の魔人と呼ぶにふさわしい。
「最初から神様になんて頼ってませんでしたけどね」
なぜか最初から選択肢になかった。決着の塔が――巨大なチャンスが転がっていたから、横道の第二案を検討する暇がなかったのだ。――検討する必要は最初からなかった。無理だと。決着しかないと。
なんとも、ろくでもない。
「魔王様、お願いがあるのですが、私がどのように呪われてるか、鑑定していただけませんか?」
「あー? いい……」
途中まで言って、ジャルドは言葉を止めた。そして心底楽しそうに愉快そうに魔王は言う。
「待った、よく考えてみろよ。タダで、善意で人助けする魔王っているか? どうぞお悩み解決します魔王です、なんて、いつでもどこでも洒落にならねぇ、つまんねぇ。そうだろ?」
「いてもいいと思いますけど」
「俺は認めねぇ。だからさ――、ほら。俺の配下にならねぇ? 四天王が全滅して普っ通にきつくてさぁ」
(またかよ)
二度目である。ミリア・メビウスに続いて二度目だ。
「はい、お断りします」
「どーしても?」
「どーしても」
「そ、じゃあそうだなぁ……んじゃ仲間貸して」
「ダメですけど」
何言ってんだ、と鏡夜は呆れた顔をする。貸す貸さない云々の話ではなく、彼女たちは各々勝手に協力しているだけに過ぎない。
「ていうか、私にそういう権利はないので、ご勝手に交渉した方が絶対いいと思いますよ」
「お前以外にまともに話通じそうなのいなくね」
「普通に話せ……話せますよ……?」
「自信なさそうじゃねぇか」
人形と人形と沈黙の超人と油断ならないお嬢様エージェント相手に、人懐っこいとか愛想良いとか表現するのは、もう嘘である。
「ちっ、じゃあ、わかった」
魔王は両手を構えて、鏡夜の前に構えた。
「ちょいと、遊びで手合わせしようぜ――そしたら、お前の呪詛の内容教えてやるよ。喜べ」
「あら、ありがとうございます」
鏡夜はかぐやと桃音に下がるように伝えると、魔王相手に構える。いつかの桃音相手にした慣らしを思い出し――腕をぶち折られた記憶を想起して憂鬱になった。人間をほぼやめているなら、痛みも抑えてほしかった。
鏡夜は軽薄な人間であるがゆえに痛みも苦手なのだ。
善き女。「なんて恐ろしいことを! たった一体の魔物が何かを決め、何かを為し、世界の行く末を左右するなど! 貴方は世界よりも重くはない、そんな当然のことも貴方の目には見えないのですか!」
悪い怪物。「私の目には私にひれ伏す者どもだけが映り、他はみな無残なしかばねとなるのみだ。他者など軽い。お前は私よりも軽い。なるほど、私の考え違いだったようだ。お前は世に語られるほど偉大ではない。ならば用はない。とくと失せるがいい」
善い女。「貴方は。何も、大切なことがわからないのですね」
悪い怪物。「大切なことがわからないのはお前だろう?」
〔勇者と魔王のジョーク集 【囚われの聖女と怪物】より抜粋〕
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速報約治・ニュースサイト 1000/1/2 17:57
灰原鏡夜とは何者なのか?
決着の塔挑戦者として突如現れ、そして常識外れの快進撃を続けている人物がいる。彼は、先日クエスト『カーテンコール』を打倒し、そして、当記事を書いた当日に――数日も経っていない! ――第一階層を、さらに第三勢力【Q‐z】が差し向けた新たなロボット(名称不明、塔関係者が攻略スピードに追い付けていない証左だと考えられる)を討伐して攻略したと確認が取れた。
彼――灰原鏡夜とは何者なのか?
そして、タイトルの問いは誰に発するべきなのか。
そもそも本人に直撃できないのが、かなりの問題である。彼の所在地である絢爛の森は徹底した保護区域であり――絢爛の森管理人である不語桃音は依然として沈黙を貫いている。というより、不語桃音は沈黙の呪い(神代の、だ!)を受けているので、突撃しても何も得られないだろう。
では、決着の塔攻略支援ドーム(長い名前だ、略称くらいつけていないのか)が答えられるのだろうか。
筆者は取材を申し込み、快く引き受けてはくれた。とても丁寧に対応してくれた――が、残念ながら私は四時間ほど粘りに粘ることになってしまった。迷惑をかけてしまったと謝罪したいが、当然受け入れられなかったのだ。
国際関係及び種族として信任を受けた、契国政府が、まるで灰原鏡夜氏を把握していないなど!
完全な謎の人物、それが結論だ。。足跡すらない。本当にそんな人間がいるのかとすら思ったほどだ。当然人間体の祝福及び呪詛の方面も調べたが、人間体の呪詛に適正がある一人の冒険者は、灰原鏡夜と別人なのは確認している。
決着の塔の挑戦者は信頼性の高い存在がなるはずなのに、逆説になってしまっている。決着の塔の挑戦者になったことによって、胡散臭い、身元も知れぬ人物が信頼性の高い存在となっているのだ。
明らかにおかしいにも拘わらず、さらにとてつもない懸念が重なる。
クエスト『カーテンコール』を誰も倒せず、倒せたのは灰原鏡夜率いるパーティである。
であるのならば単純な帰結としてもっとも強い彼が! 決着を手に入れる可能性が高いのではないか。
我々は代表を送り出したのであって、灰原鏡夜氏の願いを叶えるために灰原鏡夜氏を送り出したわけではないのだ。
国家関係者及び塔攻略関係者、そして何より灰原鏡夜―――灰原鏡夜氏自身が、己の来歴及び願いを、きちんと説明すべきである。
決着とはすなわち世界を改変するもっとも大きなものなのだから。
関係各所には、取材した当日に、急いで本記事を書き上げ発表した意味を考えてほしい。
―――――――――――――――――――――――――――――
追記:本記事は急速に拡散した。灰原鏡夜一行が、第一階層を凄まじい速度で踏破し、大獅子とクエスチョン『パレード』(取材により確定)を攻略した夜には、驚くほどのコメントと反応があった。勢いの強さから考えるに――当然の帰結ではあるが、世界へ広がるのは時間の問題だろう。
民意が決着の塔攻略支援ドームおよび灰原鏡夜氏を動かすことを期待する。
―――――――――――――――――――――――
桃音が楽しそう――鏡夜の勝手なイメージ――にラップトップPCを持ってきて、鏡夜へ向けた画面には、以上のようなことが書かれていた。
そして、ニュース記事を読んだ鏡夜の反応は。
(ド、正論だぁ)
まず思ったのが納得である。根拠が少し乏しいのは書いてある通り、急いで書き上げたからだろう。
強いメッセージ性こそあるが、非常に客観的かつ論理的である。と、評価を下して良いだろう、と鏡夜は分析する。
これはとても良い社説である――。
「何様のつもりなのかしら! 我が君よりも尊者……偉い人なんて一人もいないでしょうに!」
「権威云々は時代遅れな考え方ですよ、かぐやさん」
鏡夜は自信に権威などないと確信している。
「すごく大事だと思うんだけど、そんなのも変わってるの? 市民様とかになってるとか?」
「語弊がある気もしますが」
鏡夜の言葉にかぐやは天を仰いだ。大袈裟な。そんな悪い話ではないだろう。
千年前、神がいたらしく、信仰と生命操作技術が両立していた時に製造されたかぐやは、現代の倫理観と少しずれている。鏡夜は千年前からも、現代からも、この世界の価値感からも絶対的にズレているのだが。
……偉さなどは置いておいて、しかしツッコミどころがないでもない。
前提として、代表制度自体が欺瞞だ。
人類という団体はどこにいるのか。人外という団体はどこにいるのか。勇者は、伝承ルールから代表となり、英雄はダンジョンの攻略数が一番多いから選ばれた。聖女が望郷教会のトップであるから代表となったのなら――きっと魔王も同じだろう。民主的に代表が選ばれてなどいない。。少なくとも、やっとこさ、この世界のことを理解しはじめた鏡夜には欺瞞がわかる。
が、指摘してはならないのだろう。天照使は戦争を吹き飛ばす。一切合切を殺しつくす。ただでさえ代表が競っているのだ――人類人外論を掘り下げて、対立をヒートアップさせるのは避けたいのだろう。
「そうじゃなくてもヒートアップはしてるんですがー」
鏡夜はニュースサイトのコメント欄を読む。凄まじい数と長文短文ジョーク塗れだ。専門用語とスラングが飛び交っていて――しかも異世界特有の――目に余る。言語理解能力があると言っても無責任に言葉がとっちらかっては意味を捉えるのも一苦労だ。
ざっと眺めた限りだと――好悪以前に、まず困惑が多かった。灰原鏡夜が何者なのか、、正体不明のH・Kへどう対応していいかわからない、多くの意見はそう語る。故にこそ、社説への共感が強く、説明を願う要望が切実に溢れている。
しかし、説明義務か――。
灰原鏡夜は自分が記者会見を開いているシーンを想像する。パシャパシャとカメラのフラッシュがたかれ、両隣にはなぜか正装した白百合華澄と不語桃音、後ろには秘書らしき格好をしたかぐや。鏡夜は表情を悲痛に歪ませながら、こう言うわけだ。
『私はァ! 服を脱ぐため! 一生懸命に努力し、最善を尽くしております! 人類も人外もあなた方も本当にまったくどーでもよいですが、どうかご支援のほどよろしくおねがいしますね?』
沈黙。そして記者会見会場は怒号に包まれ、缶とかトマトなどを投げつけられる。びしゃぐちゃに汚れる自分と仲間を想像して――。
(よし、無理だな)
もう一度、思う。ド正論だ。――まさしく、最悪の異物と言ってよいのだろう、己は。
「―――そもそもの話」
鏡夜はラップトップPCの画面を閉じて、隣で鏡夜の反応を覗き込む不語桃音と、反対側の隣でほわほわと笑っているかぐやへ言った。。
「異世界人が世界の命運を左右するなど、まさしく理不尽に他ならないんですよ。理不尽な災害です、不条理な災難です。……空からいきなり降ってくるー、世界を滅ぼす恐怖の大魔王と、一体何が変わらないと言うのでしょう? 世界の常識や倫理など何も知らない、力だけがある存在が自分勝手な思考と思想で行動するなんて、想像するだけ恐ろしい」
一般人の視点、弱者の考え。鏡夜は、大多数の論理を理解できる。力のごり押しなど、鏡夜は嫌いな部類でしかない。
一息置いて、鏡夜は二人に笑いかける。
「そして、それを全て理解した上で。私は私の目的も行動も変えるつもりはないわけです。だから、私の答えは、沈黙です。……くくっ、桃音さんと同じですねぇ?」
桃音は、無表情のまま、ゆっくりと、じっくりと、遅く瞬きをする。
世間に対しては沈黙を貫こう。世の中のコイツ正気か? っていう沈黙を貫く人物たちの気持ちを理解した鏡夜である。理解したくなかった。鏡夜は弱さを肯定的に捉える人物だが、沈黙を肯定的に捉えると人として駄目になった気がする。
「まれびと……異世界人とか初めて聞いたんですけど、我が君」
「内緒ですよー?」
「どれくらい内緒か聞いてもいい?」
「私の許しがないと言っちゃいけないくらいですかね」
「……ところで異世界って、具体的にどこ? 何かこう、巨大な、隠れた、封鎖された異界の郷出身とか?」
「こう、ちゃんと聞かれると答えづらいですね、その質問。私もわからないんですが……たぶん宇宙とか次元が違うのでは」
「我が君、ファンタジーなのね」
「私がファンタジーでもリアルでもやることは変わりませんがね」
そうだ。目的や行動を変えるつもりがない。まるでない。一切ない。今何より感じている、身体を縛り付けている、呪われている苦痛は苦痛でしかない。どれだけ言葉で飾ろうが言い換えようが、ほかならぬ灰原鏡夜が幸せになれない――不幸なままだ。
そして人類や人外のために代表となる存在はいても、灰原鏡夜のために立ち上がる存在は、灰原鏡夜しかいない。
そんな極めて卑近で俗で自分勝手なロジックが――灰原鏡夜である。
「さて、もう寝ましょうか。明日は第二階層です。早く、呪いを解かないと――」
鏡夜は立ち上がると、自室へ引っ込む。足を止めている暇はない。
桃音は、ラップトップPCを持ち上げると、両手で抱きしめるようにする。そして座ったまま鏡夜が閉めた彼の部屋のドアを凝視していた
「不語桃音? 手を放してくださらないかしら? 女官型ロボットですもの我が君の部屋に控えないと――がうりきッ!」
〈1000年1月3日 午前〉
鏡夜は鈴が鳴るような音で目が覚めた。ぼーっと天井を眺めている鏡夜の耳へ聞こえるのは鈴――、ではない。小さな騒がしい音。
「シンバル……ちげぇ、これ、アレだ……タンバリンだ」
独特な小さい打楽器の音とやかましいくらいの震えるほどの高音の小さい金属の丸い物体がぶつかる音は、鏡夜も知っているものだ。
鏡夜は朝っぱらからドカシャラ響く、楽器の音に頭を押さえながら、起き上がる。自室のドアを開けると、リビングでは、桃音がタンバリンを持って踊っていた。
踊っていて、演奏していた。とんでもない技量と速度でタンバリンを全身の周りに振り回し、叩き、鳴らし、ハイテンポな曲を奏でている。
桃音の視線の先を辿れば、物々しいカメラが桃音の姿を記録していた。
(モノづくりが趣味なんじゃねぇのか、よく考えるとぎりぎりモノづくりか? PVの撮影か? ……クオリティはずば抜けたものになってるが)
桃音の超人的な身体能力によって、挙動がダイナミック極まりなかった。
鏡夜は呆れたような表情で桃音の踊りを見守る。邪魔する気はない。
数分後、チャリンと、タンバリンを振り回して、曲のオチをつけた桃音はタンバリンを机に置くと、歩いてカメラに近づいてスイッチを切った。
桃音はカメラを物置に仕舞うと、振り向いて、鏡夜を視界に捉える。
凄まじい挙動をし続けていたにも拘わらず、汗一つかいておらず、呼吸も乱れていなかった。
【喋れない/疲れない】呪い……会話機能をオミットし、無限の体力を持つ桃音ゆえに当然なのだが。
「おはようございます、桃音さん。精が出ますね」
鏡夜は腕を組んで壁に寄り掛かりながら言う。桃音は無反応で振り向くと、キッチン――ではなく、バスルームへと向かった。
(なんで?)
汗を流してないのは知ってるのだが。
鏡夜は腑に落ちない気分になって、首を傾げた。
「おはようございます、我が君」
「あ、おはようございます、かぐやさん」
キッチンから桃音のエプロンを身に着けたかぐやが顔を出して挨拶をした。
「私が起こそうと思ったんだけど、不語桃音が起床予定時間にいきなり演舞? し始めたから、部屋に行けなくてごめんなさい」
「別になんとも思ってませんが」
(なにやってんだ桃音さんとは思ってる)
「それはいけないわ! 私の起こし方は、本当にもう快適なのよ! 絶対一回味わったら病みつきなほど甘美よ!」
「逆に怖いんですけどぉ」
「なんでぇ……じゃあ、今、朝餉作ってるから、とってもおいしいわよ! 朝餉で説得力の足しにするわ」
「はぁ、楽しみにしてます」
どうも朝シャワーと朝食の順番が前後するようだ。鏡夜に括りはないが。
ああだこうだと朝の準備を終えて(かぐやが作ったのは味付けの濃い精進料理のようなものだった)、桃音の家を出る。
絢爛の森を出て、絢爛の森と外の境界付近。
昨夜、ネットニュースで灰原鏡夜についての記事があった以上、記者あるいは野次馬がいると思ったのだが……。
地面に埋まっていた。
首だけ出した人間の頭とアンドロイドの頭とドラゴンの頭と大きな兎の頭が並んでいた。鏡夜はドラゴンと目が合う。
「灰原、きょォぅッ……」
ドラゴンが何事かを喋ろうとした瞬間、ドラゴンの口の部分に石が当たり、頭がごきゅんと横を向く。ドラゴンは泡を吹いて気絶した。
鏡夜は桃音を見る。
桃音は手の中で石を弄んでいた。
鏡夜が周辺の状況を見回すと、カメラやマイクや遮光板と言ったマスメディアに必須そうな道具も埋まっている。
「……何があったので?」
「こほん、不語桃音がタンバリンで演舞しながら、掃討しました」
かぐやが静かに言う。鏡夜は驚く。
「タンバリンで演、踊りながら?!」
踊り狂って高機動する桃音を想像しようとして思考が故障しかける。リアリティを持って、そんな出来事があったんだ、と思えない。先ほどの超人的身体能力で、ダンスしながら動き回って、穴を掘って埋める……? 意味不明だ。
「あー………桃音さん、あちらの方たちは、どうなるのでしょうか?」
鏡夜の問いに、桃音は不思議そうに首を捻るだけだった。
絢爛の森の管理人、侵入者の撃退及び確保率百%、継続中。
灰原鏡夜と不語桃音が決着の塔攻略支援ドームに行って最初に会ったのは、バレッタ・パストリシアではなかった。白百合華澄でもなかったし、薄浅葱でも久竜晴水でも、ましては未だ知らぬ魔王でも聖女でもなかった――。
軍服を着た妙齢の女性が受付に立っている染矢令美に要求している。
「なぜだ! なぜクエストを発行できない!」
「でーすーかーらー、主導としては我が国が文武を尽くしておりますが、まず! 前提として! 規定として! 原則として!! 支援は公平でなければならないんですよ、少佐!」
「我が国の英雄が失踪したんだぞ!」
(え? マジで?)
鏡夜は少佐と呼ばれた女性の話を聞いて驚いた。つい先日知り合ったばかりの競争相手の喪失に、鏡夜は喜びなどまったく感じず、ただ困惑した。
染矢は鏡夜と桃音が少佐と呼ばれた女性の後ろに立っていることに気づかずにさらに言葉を続ける。
「我が国云々など一切関知しません! 国家間のパワーバランスなど関係ありません! ただ当たり前の評価基準から選ばれただけです!」
「ならば、選ばれた者を救出せねばならないだろう! 軍隊を使ってでも!」
「ありえない!!!」
テンションが高い(と言っても有口聖ほどではない)染矢令美が、激しく感情的に否定する。
「彼らは競争をしているんです。代表の競争で世界の命運が決まるんです。〈決着〉に、政治的な横やり――ましてや国家武力介入などしてはならないのですよ! 入口へ突入させたことすら、決して褒められたものではない超法規的措置だというのに!」
「倫理として問題だろう!! 見捨てて誇れるのか! 未来に!」
「詭弁です! 貴女の個人的情による政治的干渉を、“未来”に言い換えたところで、何も通じない。少佐、決着の塔攻略支援ドームは聞き入れません」
「お前では埒があかん! 私をダンジョンへ入れろ!」
「いいえ、絶対に、駄目です。弟さんが心配なのはわかりますが、彼は代表者として中に入り、挑戦しているのです。――干渉です」
「クソ! 命をなんだと思ってるんだ!」
「貴女こそ、決着の塔をなんだと思ってるんですか!?」
そして少佐と呼ばれた女性は振り向いて、鏡夜に気づいた。遅れて染矢も鏡夜に気づき、あっちゃぁ、と片手で頭を押さえた。
「おい、お前」
(あ、この話しかけ方、いつかの犬耳男さん思い出すな)
「なんです?」
「灰原鏡夜だな」
「ええ、灰色の原っぱと書いて鏡の夜で、ハイバラキョウヤですよ、お姉さん」
「契国空軍少佐、久竜恒子だ。……英雄、久竜晴水がダンジョン内で失踪した。探し出して欲しい」
「はぁ」
鏡夜は久竜恒子の後ろでブンブンと首を振って、さらに両腕も降ってアピールしている、染矢オペレーターの様子をうかがう。どう解釈してもボディランゲージで断れと必死に伝えていた。
染矢令美か、あるいは久竜姉弟か。鏡夜は、少し考えていった。
「子供じゃないんですし、自分でなんとかするのでは?」
鏡夜は不語桃音の拳の速度から時速2キロメートルほど下がった拳を顔面に喰らいそうになったので、片手で拳を掴んで防いだ。
(あー………)
真正面から攻撃してきたので、まったく当たり前のように防御を――しかも、手袋で、触れてしまった。
「言葉選びを間違えましたかね?」
「こっ……くっ……」
(【状態異常:恐怖】か)
久竜恒子は血の気が引いた顔で、一歩下がると猛ダッシュで鏡夜の横を通り過ぎて、ドームの外へと飛び出し、走り去っていった。
「ふー」
染矢令美は心底疲れたように溜め息を吐いた。
「ありがとうございます。……何をしたかは問わないでおきましょう。突き詰めると問題になってしまうので」
「ありがとうございます?」
互いにお礼を告げる奇妙なやりとりをした後、鏡夜は質問した。
「久竜さんが失踪したとか?」
「正確に言うと行方不明です。ダンジョンの第二階層から戻ってこないんです」
「……うーん?」
鏡夜は腕を組んで首を捻る。
「死にかけると、外にテレポーテーションするのに、ですか?」
「はい、推測となりますが、生きたまま何らかの理由によって身動きが取れないのだと思われます。死亡判定となれば自動で戻る以上、捜索などの手立ては取るべきではないかと」
「私はそんな風にはなりたくないですかねぇ……うーん、どんな風に行方不明になったか教えてもらえませんか?」
「私はできませんが、……どうぞ」
染矢令美は机から一枚の封筒を取り出した。鏡夜は受け取って裏返す。
「なんともレトロな……今どき封蝋なんて見かけませんよ」
「聖女、ミリア・メビウスさんから、貴方へ渡してくださいと頼まれました。久竜晴水の失踪時、ミリアさんは彼と一緒に第二階層に挑戦していたので、直接訪ねた方がよろしいかと」
「なるほど?」
鏡夜は《鏡現》でペーターナイフを作ると封筒を切って開封した。中から便箋を取り出した鏡夜と、ついでに横にいる桃音とかぐやが便箋を読む。
『拝啓、鏡の魔人様。
新年の御祝詞を申し上げます。つきましては灰原鏡夜様との会談を申し入れたくお手紙を出させていただきました。一月三日、決着の塔攻略支援ドーム最上階のホールにおりますので、ご都合がよろしい時にいらっしゃってください。できれば……いいえ、絶対に、絶対に、一人で。持ち物及び握手券は不要です。
聖女・ミリア・メビウスより』
(もう手紙でわかるわ絶対変人だよこれ)
鏡夜は便箋を封筒に戻す。
「あと、白百合さんから伝言が」
染矢の言葉に鏡夜は首を傾げた。
「メールじゃなくて、伝言ですか、彼女が?」
「しばらく来れないので、何かご用事があるのでしたらそちらを優先してください、だそうです」
「らしくないですね……華澄さんの人となりを充分に知ってるわけではないんですが。はい。伝言はわかりました」
用事と言われても、と鏡夜は封筒を片手でペラペラと振り回す。
「では桃音さん、かぐやさん、しばらくこちらでお待ちいただけます?」
「はぁ、我が君」
「なんです?」
「人形は人でも人外でもないんだよ? 私がついていっても大丈夫。機械人形がいても同じ内容を言うわ」
「そうなんですか?」
鏡夜は不思議そうに桃音へ視線を向けた。桃音は鏡夜をじーっと見返すと、かぐやの手首を掴んで引っ張った。
彼女たちはスタスタと歩き、ラウンジのソファに、一人と一体で座る。
「不語桃音? はなしてくださらないかしら? 昨夜も思ったけど力強すぎない? 剛力ィな種族の血でも混じってるの?」
鏡夜は肩を竦めた。
「私一人は私一人のようです。桃音さん、教えてくださりありがとうございます」
「……」
もちろん返答も反応もない。彼女はコミュニケーション不可能者だ――。行動だけが彼女の意思である。
「では、行ってまいります。かぐやさんもしっかり待機してくださいね」
「……りょーかいです。むー」
「いってらっしゃいませ」
「……」
不機嫌なかぐやと事務的な染矢と無言の桃音と別れて、鏡夜は聖女の元へ向かう。
決着の塔、攻略支援ドーム最上階、六階。チンッ、と音を立てて開いた巨大なエレベーターから出ると、真正面に大きな木製の両開き扉があった。左右には、ぐるっと囲うように通路が伸びている。
球を上半分に割ったような形をした天井である。六階建ての現代高層ドームに今いるのを鏡夜は強く感じた。
木製の両開き扉には、【ホール】【終日利用】【ミリア・メビウス】といった金色の名札が取り付けられている。どうも最上階ホールは予約制で使えるらしい……。
鏡夜は髪を戸惑ったようにいじくると、ホールへ――入らず、右側の通路へ向かった。
(なんとなく――気後れというのか、悪い予感というのか、そういうものを感じるな)
まるでとてつもない大蛇が眠ってる洞穴に孤立無援の無策で突入するような、悪い想像から生まれる惑いが、即座に入室する賢明な行動を避けさせた。
他者が誰もおらず、好奇でも危機でもないのなら、灰原鏡夜とはこんな男だ。他人への恐れから、遠回りをするような、弱さがあり。そして自身の弱さを決して嫌ってはいない。
「うん?」
鏡夜は丸く続く廊下の途中に、鈍く銀色に光る未来的自動販売機が一つ、壁にめり込むように設置されているのに気づいた。
鏡夜はふらふらと自動販売機の傍に寄る。自動販売機の前を通り過ぎ、名残惜しそうに何度も振り返りながら立ち止まらずに歩みを進める。
「アルガグラムコーヒー……、ねぇ」
興味深い。飲んでみたい。だが持ち合わせがない。所持金ゼロ。いつか小銭を稼いだら買いに来ようと思う。超多角的に活動しているアルガグラムを何度も目撃している。クオリティは全て高かった。今度も期待できる、と鏡夜は先ほどの重い足取りとは打って変わってルンルン気分で歩き――再びホールの扉に辿り着いた時、思い出したと足取りを重くした。
一周してしまったらしい。だが有意義な寄り道だった。寄り道、無駄な時間などといった概念を失くしかけていたので、有益かつ無駄な行為ができて少し嬉しい。
だからこそ意を決してホールに突入できる、と理由にもならない理論づけして決意を固めて、鏡夜はホールの扉を開いた。
まず感じたのは薄暗さであり――次に感じたのは明るさだった。天井から降り注ぐ光がステージに当たり、椅子に座っていた一人の女性を照らす。
ふわふわとした青髪の柔らかな表情をした女性。スタイルの造形美を強調する、ギリギリのラインで上品さを保つ青いシスター服の女性はふわりと立ち上がると、にこっと笑ってお辞儀をした。
誰であろう、彼女こそ《聖女》――ミリア・メビウスである。
かつての栄華、失われた神話の栄光を研究し切望する、望郷教会の代表。どんな老獪なCEOだがCOOっぽいものが出てくるのかと思えば。
《聖女》を想像してくださいと質問されて、思いうかぶ二つの選択肢。戦う聖女と癒す聖女のうち、後者がそっくり目の前に現れたかのような、第一印象だった。
なぜか背筋が凍る――。
「来てくださって、ありがとうございます」
鏡夜は姿勢を正した。
「お呼びいただき、ありがとうございます」
鏡夜は頭を下げた。
「ふふ、そんなに身構えなくてもいいですよ、私と貴方以外、誰もいませんから。安心してください」
穏やかに、こちらを安心させようと声をかけるミリアに鏡夜は笑顔の仮面で応じた。
「お気になさらず」
「……少しこちらに来ていただけますか?」
鏡夜は無言で頷くと、ホールのステージへと近づいた。一階にもステージホールがあって六階にもステージホールがあるなんて、どんだけイベントを開きたいんだここで、と鏡夜は緊張を誤魔化すためにいつもように脳内でツッコミを入れる。
ミリアの足元まで来た。ミリアは椅子の上に置いてあった四角く硬い紙を取り出すと、さらさらと書く。そして屈んで鏡夜へ手渡す。
「サインをあげましょう」
そして渡される色紙。有名店の壁とかに飾ってある有名人の色紙と同じような縁取りと材質だ。斜めに流れるような筆記体でMilia・Möbiusと書いてある。
鏡夜はサイン色紙を片手に持ってまじまじと眺める。
「生まれて初めてサインをもらいましたね」
「光栄です! ブロマイドもつけちゃいましょう」
そう言ってミリア・メビウスはポケットからブロマイドを取り出すと、鏡夜に渡した。
(アイドルかな?)
残念ながら鏡夜はアイドル趣味に詳しくないのだが、連想したのはそれだ。えらくきゃぴきゃぴした、爽やかな笑顔とポーズを決めた水色のシスター姿をしたミリア・メビウスの写真――ブロマイドを渡された。
鏡夜よりかは年上なのだが、圧倒的な自信と醸し出される魅力によって、なかなかに堂が入っている……アイドルとしてだが。
由縁はともかくとして教会と名乗り、かつそのトップが自分の偶像を喜ばし気に渡すとは。
「ポスターもいりますか?」
「あ、ありがとうございます……?」
さらに重ねてくるとは。やっぱりアイドルだな、もう言い訳のしようもない。と鏡夜はポスターを受け取りながら思った。
サイン色紙とブロマイドと丸められたポスターをポケットに仕舞ったり、ベルトに差し込んだり脇に持ったりした後、鏡夜はステージ上のミリアへ言う。
「で、何の用です?」
「私のファンになってほしかっただけ……と言ったらどうします?」
「……ぴかぴか光るケミカルなライトの持ち合わせがないので、ミリアちゃんふっふー、と応援するのはまたの機会にしましょうと、解答します」
「残念です……」
アイドルだと思った印象のままいつものように意地を張って虚勢で皮肉げに答えた鏡夜へ、ミリアは心底残念そうな表情で愁いを帯びた溜め息を吐く。
(やりづらい)
また危険な兆候だ。冒険者は舐められてはいけない。それは侮蔑と嘲笑はもちろん、慈善へも向けられる。
優しげで、柔らかく、お茶目で、好意的な女性。そんな魅力的なものにすっかり溶けて懐いて依存してしまうのもまた――舐められる。
鏡夜は媚びたような愛想笑いをしたい欲求を戒めて、優雅に微笑する。ミリアは柔和な笑顔で鏡夜を見下ろす。
まるで鏡のように、笑顔と笑顔で相対する。
先に口を開いたのは、ミリアだった。
「私と組みませんか? 何が欲しいですか?」
懐柔―――勧誘か。
「何が欲しいと思います?」
「女か金か権力か――が一般的な欲望ではないでしょうか」
(こっわ。こいつ――こんなはっきり言ってるのに)
威圧感がまるでない。逆に恐ろしい。完全に、完璧に自己を支配している。自制心で態度を制御しきっている。
意地と虚勢で塗り固めた鏡夜は、自分よりも出来の良い鏡を前にした気分になった。しかし、気圧されてしまうわけにもいかない。鏡夜はできる限りシンプルに答えた。
「違いますね、どれでもない」
「なら、なんです?」
「灰原鏡夜、ですよ」
「………」
ミリアの教唆は成り立たない。欲しいものは灰原鏡夜である。魔人ではない、人間としての灰原鏡夜。
だから――ありえない。何かに従うとか、所属するとか、欲望を追及するとか――心の余裕はまったくない。灰原鏡夜は決着を自分のためにしか使うつもりがないのだ。
「だから、貴女の誘惑は、残念ながら魅力的ではないです」
「傲慢ですね。傲慢の報いは恐ろしくありませんか?」
「恫喝も、残念ながら無力かと。報いって、何をするんです? 具体的には?」
「……本当に、傲慢です」
鏡夜はにこりと笑った。鏡夜の家族はこの世界にいない。鏡夜の友人はこの世界にいない。鏡夜の仲間は圧倒的に強い不語桃音と、強烈に抜け目のない白百合華澄と異常なスペックのあるバレッタと、明らかに高性能極まりないかぐや、しかいない。
誰もが、ただの刺客や陰謀でなんとかなるとは思えず――彼女たち自身で片づけてしまいそうだ―――さらに、根本的な問題として、信頼など最初からない。
会ってまだ数日しか経ってないにも拘らず深い信用など得られるわけがないし得て良いはずがない。
そして、それでよいのだ。アドリブでチームを組んで現場の機転でチームワークを発揮する。利用していると形容すればおおよそ正しく利用されていると表現すればもっと正しい――。
だがあえて鏡夜が率先して裏切ると仮定してみると、さらに浮かび上がる問題がある。
裏切った場合――白百合華澄を裏切る行為はパーティメンバーから外すしかできないが――彼女は特別顧問に戻るだけだ。そして彼女が齎すのは苛烈な報復だけだろう。意味がない。利点がない。
不語桃音はもっとまずい。彼女の弱点につけこむようなスタイリッシュ裏切りムーブをせずに、格好悪い裏切りをした場合、何がどうなるかまったく予測がつかない。ただ鏡夜の直感がビシビシ伝えるところによれば、最悪たぶん死ぬと思う。鏡夜は死にたくないので、やはり裏切れない
となると鏡夜自身へ直接的に何かするしかないのだが―――。
鏡夜をなんとかできるそんなものがあるなら決着の塔の攻略に使えばよろしい。そんなものはないだろう。……ただのロジックでしかない。薄浅葱のように推理と呼ぶのもおこがましい。だから、ミリアの恫喝は、無力だ。ありもしない、虚像なのだから。
「―――なら〈神〉ですか」
ミリアは静かに言った。
「〈神〉?」
「貴方は、〈神〉についてどれくらい知っていますか?」
「残念ながら、あまり知りませんねー」
鏡夜はできる限りシニカルな態度で肩を竦めた。内心は冷や汗を垂らしていたが。〈神〉はなんだかんだと聞く機会を逃していた。まったくの不確定要素である〈神〉を駆け引きの材料にされるのは、始まりからして不利だ。
「では、聖女が、貴方に、説明してあげましょう」
愛想良く、まるで長年の友達のようにミリアは語る。
「〈神〉とは、観測不能・干渉不能・交渉不可能の姿なき何かです。ただ、〈神〉は存在します。なぜ、我々は〈神〉の存在を確信しているのでしょうか?」
まるで出来た講義のように、聖女は鏡の魔人に問いかける。鏡夜は即座に答えられた。
「呪詛と祝福でしょう」
ミリアは頷く。
「祝福と呪詛を人類人外に施せる大本です。呪術師の呪いを扱う力も、聖職者の祝福を扱う力も、神から施術された力に過ぎないのです。はっきり言ってしまえば、〈神〉ではないものが扱う生命操作技術は、〈神〉にとって児戯に過ぎないのですよ。そして、本題なのですが。我々望郷教会は〈神〉をいくつか――恐らくですが、保持しています。興味ありませんか?」
「扱えない力には心惹かれません」
ただでさえ鏡夜は過度に負担な呪詛に纏わり憑かれているのだ。
「ふふ、安心してください。制約や制限の条件は、我々が永い永い時間をかけて、文献と実地試験によって導き出してきました――。見えず、触れず、語れずとも。同じ刺激を与えれば同じ反応を返す――。ええ、そういうものでしょう?」
(……マジで神に対する敬意とかねぇんだな)
極めて合理的な姿勢だ――、人道主義では、だが。扱いが考古学者にとっての恐竜や、医学者にとってのモルモットと同じだ。
神代を望郷しながら〈神〉への敬意や信仰がまるでない。救う技術であり、操る力である。いつか華澄が言った“神ではなく神の御業を崇める不信心者の集まり”という言葉を思い出す。流石華澄。嫌になるほど適格だ。
「……〈神〉様って、呪いを解いてくれるんですか?」
「―――……賭けてみる価値はあると思いません?」
「はい、お断りします。誠実に答えてくださりありがとうございます!」
餅は餅屋。呪詛については魔王に聞けと有口聖に言われたが、あの喧しいシスターはこうも言っていた。呪術師、聖職者ならおおよそ呪詛量、祝福量がわかる、と。
聖女の測定結果は、“分の悪い賭け”だ。鏡夜にははっきりと、そんな副音声が聞こえた。
「では、私からも一つ、久竜晴水さんは貴女と同行していた時に失踪したそうですが、なぜ失踪をしたのですか?」
「回答すれば貴方は私と協力してくださいますか? ただの――合理的な、判断で」
「しないです。なら、いいです。そんな大切な用事でもないですし?」
鏡夜は仕方なさそうに抱えた色紙を弄んだ。そして口を開く。
「ではもう、行っても……おおっと、一つ、よろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
表面上は相も変わらず穏やかで柔らかなやりとり。
「ミリアさんは……〈決着〉についてどう思われます?」
「答えたら私の部下になってくれたりは」
「しませんね。答えたくなかったら答えなくてもいいですよ」
「せっかくですから……。〈チャンス〉でしょうか」
ミリア・メビウスは一言一言確かめるように言った。
「今までずっと待っていた。かつての憧れを叶える絶好の機会。過去の――長い長い過去のわだかまりや因縁を解決し、天国のような世界を実現できる鍵。神代を終わらせてしまったのが〈契約〉なら、また新しい時代を始めるのも〈契約〉である。……と、私は思っていますね」
「なら、〈決着〉を手に入れたら貴女はどうします?」
「回帰を――ただ回帰だけを望みましょう」
「そうですか、ファンとして応援させていただきます」
ミリア・メビウスは虚をつかれたように、きょとんとした顔をした。
「私を――応援すると? 敵対者である貴方が?」
「ええ、決着は私が手に入れますし、不幸なすれ違いこそありましたが――私にファンになって欲しいと言った貴女が嫌いではないので。お嫌でしたか?」
素朴な理由だ。鏡夜が意地と虚勢を形作るような強者の姿がミリア・メビウスにはあった。鏡夜は自分の弱さを誇る人間だし、強さにかまけた展開が嫌いではあるが――誠実な、強さは決して嫌いではないのだ。
「いいえ……嬉しいです。灰原鏡夜」
鏡夜は大げさに一礼すると、くるりと背を向けてホールから去っていった。
灰原鏡夜はミリア・メビウスのファンとなった。些細なことである。
鏡夜は出てすぐにあるエレベーターに乗り、一階のボタンを押した。扉が閉まりそうになり―――すっと、女性の手が扉を掴んで止めた。
鏡夜は驚いてシミ一つない美しい少女の手へ注視する。
「少し、待ってくださいません?」
「華澄さん?」
異物を感知して自動的に再び開くエレベーターのドア。その中へ、白百合華澄が滑り込んできた。
閉まるドア。下がるエレベーター。
鏡夜はぽかんと華澄へ言う。
「どうかなさいましたの?」
「どこに……いたんですか?」
そうだ。おかしい。灰原鏡夜は、気まぐれに、六階部分を。ドームをぐるりと回った。鏡夜が回った回廊のどこにも白百合華澄がいなかった。
白百合はすまし顔で言った。
「灰原さん。攻略支援ドームは塔を中心にした円形の建物ですの。つまり、ホールと廊下しかない最上階は奇妙ですわ。なぜかといえば、ホールと廊下の一部の間に、塔が通っているはずからですの」
「……構造の話です?」
鏡夜は脳の中で想像する。つながった丸い廊下、中心にあるホール。上部分のホールと廊下には空白部分があり、空白に決着の塔が通っている……。
「丸い塔に、丸い廊下、四角いホール。組み合わせればデッドスペースができますわよね。つまり、わたくしが、いた空間ですわ。聖女さえもが油断ならない。なら、抜け目なく行動しておくべきと思いません?」
「盗み聞きしていたんですか」
「盗聴と表現するには、いささかスマートさに欠けておりましたけれどね」
納得した。彼女が突然メール……便利で電子的な手段ではなく、人づての伝言なんて不確かなものを託した理由。
「ミリアさんが手紙を渡したところを見ていたんですね」
「ええ……時間がありませんでしたので、あのような形に。そんなことより、ずいぶん心惹かれておりましたのね。あそこまで惜しそうな貴方は初めてですわ」
そう言って華澄は鏡夜に缶コーヒーを優雅に手渡した。鏡夜は手に持った贈呈品に表示されている名前を読む。
先ほどのアルガグラムコーヒーだった。
(奢ってもらっちゃった……なっさけねぇ)
ただまぁ、人の善意を無駄にする趣味も、コーヒーを無駄にする嗜好もない。
「どうも」
鏡夜は微笑んでから、プルタブを開けると、アルガグラムコーヒーを飲んだ。
(うっま)
まるで一滴の神の雫を舐めとるような味わい深さ。喉の乾きを癒す香りと瑞々しさ。今まで飲んだ経験がないほどの逸品だった。
鏡夜は一口飲んで、完全に魅了されてしまった。できれば買えたらいいな、が、絶対に買う、という決意へ変わる。
鏡夜は頬を緩めながらアルガグラムコーヒーを飲む。華澄は口を開いた。
「お気に召しましたの?」
鏡夜は缶コーヒーから口を話して答える
「ええ、このコーヒーはとても良い」
「一滴の雫のごとく甘露だそうですし?」
「アルガグラム製品だそうですけど、ご存知でした?」
「技術者が知り合いですわ、機会がありましたら紹介しますの」
「是非……おっと、私と貴女の時間が空いた時にでも」
今は塔の攻略中だ。趣味に走るわけにはいかない。
チンッ、と音が鳴ってエレベーターは一階に辿り着いた。扉が開く。鏡夜と華澄は並んで歩きだした。
「正直まったく気づけませんでしたねぇ」
「ふふ、そう簡単に気取られてしまってはエージェントの名折れですのよ」
缶コーヒーを飲み終わった鏡夜は、近くのゴミ箱へ缶コーヒーを入れた後、華澄へ声をかける。
……本当にすごい。灰原鏡夜の五感はとてつもなく強化されているのだ。その上でなお、幽鬼の時の桃音でさえ超えて気配一つ感じなかった。彼女でさえ小屋の中で動いた時は感じ取れたのに――。
鏡夜の背筋は本当の意味で凍った。
気づかなかった? なぜ気づかなかった? 彼女はエレベーターに乗り込んできたんだぞ!! 白百合華澄は鏡夜のすぐ傍にいたはずなのだ! すぐ傍にいなければエレベーターの扉に手を突っ込んで止められない! だが、華澄はいた!
鏡夜を不意打ちで殺せる距離まで、まったく存在を気取られずに傍にいた!!!
「あ、お帰り我が君―、あれ? 一人じゃなかったの?」
「くすくす、お帰りなさい、我が主……」
戦慄しているうちに、鏡夜と華澄はラウンジにいた桃音、かぐや、そしてバレッタと合流した。バレッタは後から来たのだろう。
「我が君?」
「ああ、いえ……」
鏡夜は首に手を置いて、瞼を閉じて首を傾げた。そしてパチリと目を開いて言った。
「お待たせしました?」
「結構待ったね、ねぇ?」
「………」
「くすくす……」
桃音は無反応であり、バレッタは微笑むだけだった。かぐやは肩を竦める。
「で、〈英雄〉さんの失踪の理由は聞けた?」
「聞けませんでしたねぇ。あ、いろいろ貰いましたけど。かぐやさん持っていてくれません?」
かぐやは鏡夜に手渡されたミリア・メビウスのサイン色紙とポスターを受け取った。
「何これ。……こんなゴミを渡して教えないなんて邪悪な聖女ね……どこの宗教体系の聖女なのかしら」
「望郷教会ですわね」
華澄はすげなく言った。
「別に必死に――灰原さんの身を差し出してまで、得る情報ではありませんわ。だってバレッタがいるのですから」
「……あー」
そうだった。バレッタは過去一年まで観測できる。つまりくまなく観測すればわかるのだ。
しかも第二階層で失踪したのは、すでに染矢令美から聞き取っている。
「入口から痕跡を追えば、ということです?」
「灰原さん、久竜さんを探すんですの? 何かこう、依頼をされたとか」
「依頼はされましたが、断りましたよ」
「……? 断ったのに気にするんですの? 塔の攻略に関係ないですわよね?」
「……たしかに」
たしかに鏡夜が、本当に自分のためだけに動くのであれば、久竜晴水の捜索など必要のないものだ。聖女に聞くまでもなかった。話の流れ、出来事の流れで動いていたが、確かに、必要がない。どうせ晴水は自らの力で戻ってくるだろうし、ダンジョンの性質上、死なないのだからいつか戻ってくるだろうと、鏡夜は久竜晴水の失踪など忘れてもいい……。
「………」
鏡夜はしばらく考えて。
「貸しになりますし?」
「……そうですの。よろしいですわ」
「我が君が言うならそうなのかしら?」
「くすくす……」
「……」
含みのある返答&疑問&微笑&無言。……以前よりかは幾分か返答に意味が出てきた。
〈1000年1月3日 午後〉
聖女と対話の前に寄り道をしたせいか、時刻は昼になっていた。鏡夜一行は食堂〈刈宮〉で昼食を終えると、さっそくダンジョンへと潜った。
生物ではないかぐやが物を食べているのは生体人形の仕様なのかという話をしながら今までの道を通り抜けて………第二階層へ着いた。
第二階層【密林】は一言で言えば、アマゾンの熱帯雨林を想像すればだいたい正解なダンジョンだった。
眩しいくらいの光が、葉と蔦によって遮られ薄暗くなる。多種多様な植生はまさしく熱帯雨林のものであった。
動物や鳥の鳴き声がせず、視界に虫がいないのがものすごく気持ち悪い。自然モチーフなのに不自然さがちらつく。
バレッタは左右へ首をゆらし、あたりを視界に収めて観測する。
「くすくす……パーティーメンバーが全滅した久竜晴水様は、外部の冒険者を雇う前に、他の協力者、すなわちミリア・メビウス様一行と随行して、ダンジョン内を探ることを選択しました。対価は単純に久竜晴水様が率先し武力として協力することだそうです。メビウス様曰く、貴方にはその程度の価値しかない、とか……。そして、あちらへ……」
バレッタはそう言って先導するように歩き始めた。鏡夜の願い通り辿ってくれるらしい。しかし、バレッタの過去観測は相変わらず凄まじい。ダンジョンの中だけではなく、外でも、言動に気を付けないと過去観測で鏡夜の隠しておきたい様々なことがすっぱ抜かれてしまう。ただ、今いる場所の過去しか観測できないのが救いといえば救いか。
歩きながら、蔓がうざい、と鏡夜は足の力でぶちっ、と蔓を引きちぎる。地面すら落ち葉と雑草と蔓とで埋まっている。植物の力溢れすぎである。
高い木々で日差しが遮れている場合、背の低い植物は日光を受けらず生えづらいはずなのだが、あくまで場を薄暗くするぐらいしか生い茂ってない上の葉のせいで、十分雑草が育つ余地があったらしい。
バレッタは嫋やかにニコニコと微笑みながら、鬱蒼とした空間を歩いていく。あまりにも周りの環境とあっていなかった。
そんなこと言ったら全身灰色スーツの男とお嬢様学校の制服のようなブレザー少女と落ち着いた文学少女じみたロングスカートの少女とカジュアルにアレンジされた十二単を着た少女という、どこの場所に行けば合うんですかみたいな集団ではあるのだが。
「遮蔽物が多すぎて車が出せませんわね」
華澄は呆れたように手の甲で木を叩いた。重い音が響いているので、木の中はみっちりの満ちているのだろう……。なぎ倒すのも伐採するのも一苦労だ。
モンスターの出現率は第一階層【荒野】よりも低かった。地中から飛び出て高速で特攻、胴体に風穴を開けようとするスラッシャー・ワーム。苔の身体を持ち、鳴き声でダメージを与えようとしてくるモス・マンドレイクといった神話に影も形もないけどそれなりに有名なモンスターが襲い掛かってくるが、即座に塵に還っていく。
やはり過剰戦闘能力ご一行である。
しばらくしてバレッタは、扉の前で立ち止まった。
「次の階層の扉? もうクリアですか?」
「くすくす……よく見てください……。こちらに鍵穴があるでしょう……?」
鏡夜はバレッタの言葉に従って扉を観察する。
石造りの扉には、小さな空洞があった。空洞の上には鍵の絵柄が描かれている。鏡夜はふむ? と次の階層への扉をさらに注視する。
扉には鍵の絵以外にも三つの絵柄が描かれていた。
一つ目はなんらかの集団の絵。棒人間と棒蜥蜴が寄り集まって集落を形成していた。そこから矢印が伸びて弓矢を向けられた巨大な鳥が描かれている……。そして巨大な鳥からまた矢印が伸びて地面に墜落した矢が刺さった鳥が描かれ……最後の絵、鍵の絵へ矢印を伸ばしていた。
つまり。
集落→弓矢を向けられた鳥→矢が刺さって落ちた鳥→鍵。
「………」
華澄はうんざりした顔で絵柄を見ていた。
桃音は不思議そうに首を傾げている。
バレッタは言った。
「くすくす……つまり……第二階層のクリア方法が、図解されているのでしょうね……」
「おつかいクエスト?」
鏡夜は思いついたままに言った。かぐやはほわほわと言う。
「〈Q‐z〉のカラクリはまだ確認していないわね、我が君」
「そっちの忌々しい方ではなく。こっちも面倒だ、なんて意味では忌々しいのですが……」
「バレッタ、メビウスさんたちはどちらに向かいましたの? それとも殺し合ったので?」
「くすくす、残念ながらジェノサイドは行われておりませんが、どうもユニーク・モンスターと表現すべきものが現れたようで聖女パーティの仲間が全身を砕かれて二名ほど即死してますね。これは……くすくす……データベース、ヒット。寺つつき。契国土着の怨霊型モンスター。ああ、でも久竜様が率先して戦って、切り捨てましたね。ふむ、リポップはしないでしょう。おそらく千年前、異界に塗り替えられず残った生体機械でしょうし……」
「聖堂教会はエリクサーを大量に保有してますから、死亡テレポーテーションからの復帰数……残機数が段違いですのに、なにを守りにいっているんですの?」
言外に見捨てろと言い放つ華澄が鏡夜は怖かった。だが表に恐怖を出すわけにもいかない。鏡夜は言葉だけを捉えて会話する。
「エリクサーって、それずるくないです?」
「くすくす……性能差をズルと呼ぶのはあまりお勧めしません……対戦相手ならなおさらです……ああ。こちらへ進み始めました……」
バレッタは再び歩き出した。どうやら事件があったのは扉の前ではないらしい。
「あー、バレッタさん?」
「くすくす……メビウス様たちが通った時、風が吹きました。強い風が木々の合間を通り抜けた時……木々が枯れたのです」
確かに木々がすっかり枯れていた。腐食していた。枯れている部分と生い茂っている部分の境界は曖昧でぶれている。
「枯葉剤……?」
そう口にしてから鏡夜は急いで手で口を覆った。
「うーん、違いますね?」
かぐやはそう言って、大きく深呼吸した。
「人体に有害な物質は検知できません」
「そうやって検査するんですねえ」
「人形ですし……」
「くすくす……粉が散布されたわけではありません。風……です。風だけが通り抜けて急速に植物を腐らせたのです……極めて毒性の高い毒ガスが……叩きつけられたのでしょう」
「難易度高すぎません?」
「くすくす……メビウス様のパーティが毒ガスによって崩れ……なお吹きすさぶ突風、浮き上がる身体、天へ吹き飛ぶ久竜晴水と、そういうわけです」
「空を飛んで行方不明とは。オズの魔法使いのようですわね」
「人が失踪したんですけどね」
バレッタは空を指さす。あちらに飛んでいった、ということだろう。毒ガスで身体がぐずぐずになることなくぶっ飛んだ。奇妙な話だ。奇妙といえば。
「ミリアさんはどうなったんで?」
「くすくす……逃げて……集落にいた人型生物と蜥蜴人型生物を盾にすることで、完全に逃げおおせました。ほら」
バレッタは地面を指さした。ボロボロに崩れ切ってはいるが、たしかによくよく観察すれば四肢と頭がある。崩れ炭化したような何かがある……。
集落。人型と蜥蜴人型。間違いなく、次の階層への扉に書いてあった絵柄の対象だ。鍵になるだろう人たちが、滅び切っていた。
「おつかいクエストなのに初手から詰んでるんですけどおかしくないですか? ミリアさん……」
「くすくす、おそらく、。詰みではないかと。メビウス様たちが現場を通る一時間前、集落はありませんでした……メビウス様たちが近づいた時に、突如集落が出現したのです……地面から」
「地面から!?」
「恐らく、実際に人間とか蜥蜴人とかではありませんわ。ただのギミックなのでしょうね。だからある程度進むとか、条件を満たせば出現すると思われますの」
「量産型の使い捨て生体機械は脆いわねぇ」
かぐやは地面に落ちている残骸を指で突っつきつつ、光を浴びせている。
「ふむふむ……毒は残留してないわね。無害化が早いんでしょうね」
どうやら光学的分析を行っていたようだ。
「くすくす、どうしますか? 風が吹いてきた方向を調べますか? メビウス様が逃げた方向を辿りますか……」
「進んだ方向を辿りましょう。毒ガスを浴びせられた時、防ぐ方法がないんで……ないですよね?」
「散布方法によりますわ」
華澄は端的に告げた。
(嘘を吐かねぇのは誠実だが不安な気分になる返事だな)
しばらく進むと集落に辿り着いた。馬鹿な。さっきぐずぐずになった跡地が……とはならない。華澄が説明した通り、自動ポップするギミックなのだろう。
証拠に、人型生物も蜥蜴人型生物も眼や鼻がなかった。口だけしかなく。どれもこれもが一定の挙動を繰り返している。互いに向き合って談笑のような動きをして、別れて、また同じ対象と同じ動きをして。不自然な、つまり正確過ぎる身体の動きでトンカチを延々と叩き続けていたりする。
機械以上に、非生物感が凄まじいと鏡夜はバレッタと比較する。〈刈宮〉で稼働しているコレリエッタ氏の方がまだ命を感じる。
すると、鏡夜の前に蜥蜴人型のソレが来る。蜥蜴人は地面に林檎の絵を描いて、口をぱくぱくと動かし、地面を引っ掻いている……。
「たらいまわしのおつかいクエストですか。林檎を探し出せば、貴方たちから弓矢が貰えて、その弓矢で鳥? を落とす。……林檎を取ってくるにも、また作業感溢れるおつかいがありそうですこと」
鏡夜は口に出した内容によって、さらに意気消沈する。……面倒くさい。毒ガスも殺到してくる危険地域で広くて煩わしく危険な熱帯雨林型ダンジョンを行ったり来たり……苦労が予測出来て憂鬱を超えて陰鬱になる。
「くすくす、メビウス様はここを確認してから、下へ降りる階段へと逃げたようです……」
バレッタが報告する。
すると桃音が突如、枯れ木に足を駆けると、一直線に登って行った。
「ん? どうしました桃音さ―――」
鳥だ。空に鳥いる。木々が枯れているようで広く見晴らしがよくなった空に、点があり――点が移動している。
「間違いない、ボスです!」
鏡夜もまた桃音に続いて、桃音と同じ木を駆け足で登った。即座に頂点に着く。毒ガスを浴びきっていないおかげでまだギリギリ木の体裁を保てているような、少し不安のある木だった。が、二人の人間が乗っても折れることはなかった。
桃音と並んで鏡夜は巨大な鳥を観察する。
毒々しい色をした鳥である。汚濁した濃い緑の嘴を持ち、縮尺が数百倍にもなったオオハシが、空を滑空していた。不安を呼び起こす身体の比率と色だ。濃綠と濃ピンクとくすんだ黒と茶色が混ざったような――――怪鳥である。
第二階層、【密林】のボスは、怪鳥だった。
華澄も地面から確認したのか声を上げる。
「確認しましたわ。なんだ、捻りもなくいますのね! バレッタ、スポッターを!」
「くすくす、ラジャーです」
華澄はどこからともかく狙撃銃を取り出すと、立ったまま狙撃銃を構えた。バレッタは補助するように狙撃銃に二本の棒を取り付けて地面に設置し、土台とする。
狙撃銃が固定される……。
鏡夜は華澄と怪鳥の両方を視界に収める。距離がかなり遠いように見えるのだが……。
「くすくす……距離六千……五千ハ百……五千五百……風は北東に向かって……五千二百……風速に変化……対流……」
「撃てるんですかね、こんな離れてて。しかも空にいるのに」
「……?」
桃音は不思議そうに自身が乗っている木に手を当てた。
鏡夜も桃音に倣って足場にしている木へ注意を向ける。
……揺れていた。微細だか、ガサッ、ガサッ、と一定の周期で揺れている。
揺れが大きくなっている。
「……私、こーゆーの映画で見たことあるんですよね」
「……」
「ドン、ドンと揺れが大きなっていって、何が起こっている!? ……と周囲を見渡してみれば……」
鏡夜は顔を上げて、空ではなく、地平線へ――視線を固定した。バレッタが言う。
「危険。気圧の上昇、大質量接近」
華澄はスコープから目を離して、鏡夜たちの方へ関心を向ける。
鏡夜が、呟く。
「巨大な化け物が地面を揺らして、迫っていたっていう―――」
「……!」
鏡夜と桃音は驚愕に一瞬、身を固めてしまった。かなり距離が空いているにも拘らず、鏡夜と桃音は、森のどの木よりも数十倍大きな巨大機械兵器を見上げた。
Quest“Deadend”の刻印が、銅の腕に刻まれている。カーテンコールよりもなお大きく、ズシンズシンと地響きを鳴らしながら歩く銅の巨人。
鈍く光沢を放つ生き物ではない無機物。生体部品はあれどまさしく機械兵器――。すなわちクエスト『デッドエンド』。
〈Q‐z〉の新たな刺客だった。
「クエスト『デッドエンド』!! 巨大機械です! 来てます!!」
クエスト『デッドエンド』が両腕を曲げて構える――。鏡夜の視覚はクエスト『デッドエンド』の全身に空いた小さな、大量の穴を捉える。群衆恐怖症なら卒倒するほどに並んだ穴と穴。風の音が遠く、クエスト『デッドエンド』から聞こえる。
鏡夜の頭の中に、数々の言葉と光景がよぎる。毒ガス、風。死神の吐息。
「逃げましょう!!」
鏡夜と桃音は木から飛び降りた。直後、暴風が先ほどまで鏡夜と桃音がいたあたり、木の頂上を吹きすさぶ。揺れる木々は一瞬にして変色し、ボロボロと一瞬にして永遠の時が流れたかのように劣化した。
「無色ッ! 透明のッ! 毒ガスッ! ですか!」
(無味無臭の毒ガスをまき散らす巨大兵器?! 性格が悪すぎるだろ!!)
視界の先では華澄が狙撃銃を締まって地面に伏せようと膝を曲げている。バレッタはクエスト『デッドエンド』を観察している。かぐやは鏡夜の方へ駆け出している。
かなりのピンチだ。シンプルな危機だ。判断ミスをしてはならない。
「失礼ッ」
「……んっ!」
鏡夜は華澄をお姫様抱っこすると即座に走り出した。桃音は鏡夜に並走し、後からかぐやとバレッタの人形組がついてくる。
「すいません、緊急事態でしたので――」
「大丈夫ですわ」
鏡夜は華澄を見下ろした。そして、すぐにまずっ、と、両手を《鏡現》で覆った。手袋で華澄を触ってしまった。服越しでも状態異常は発症してしまう、と鏡夜は走りながら華澄を紅い瞳で観る。
「………」←弱点:【なし?】
(ハテナっってなんだよ!!!!!)
まったく平常で冷静で――そして薄っすらと頬を赤く染めている華澄の弱点は、変化はしたが増えなかった。状態異常が効かなかったとするのなら、本当に人間なのか疑うところなのだが、鏡夜の超人的な五感は、彼女が人間であると伝えている。
変化はした。状態異常は、確かに、効いては、いるのだろうか?
だが、気にしている暇はない。
全身に走る恐慌。背後から近づく、唸るような風の音。
「皆さん! 私の傍へ!」
猛ダッシュしながら、全員が集まったのを確認すると、鏡夜は後方に限界まで広く、大きく、四枚のストックを使って《鏡現》の防壁を作った。
ゴウッ、と毒の空気が殺到する。ボロボロと何かが崩れる音がする。振り向く暇もない。
かぐやは後ろ走りをしながら、防壁の横へ小さく出て、クエスト『デッドエンド』に向かって、片手を伸ばし、光線ビームを放った……が、『デッドエンド』に当たる前に、光が空気中で拡散してしまう。
「空気の分子構造が大気と違うわ、拡散しちゃう」
そう言ってからかぐやは――暴風を喰らった。
「かぐやさん!?」
「大丈夫よ我が君、ほら」
かぐやは片手を鏡夜へ見せる。炭化してぐずぐずに崩れていった。ぷらぷらカジュアルな十二単の袖、布だけが揺れていた。
「どこがです!?」
「片腕欠損はデフォルトの自動修復で治るわ。セーフ」
「アウトですけどね! もう逸れないでください!」
「はーい」
かぐやはバレッタと同じように、綺麗に鏡夜と桃音の後ろについて走るようになった。
鏡夜たちはとにかく死ぬ気と死ぬ気と死ぬ気で、第二階層から脱兎のごとく脱出した。
第一階層〈荒野〉で鏡夜は華澄を地面に降ろしてから息を荒げて屈んだ。
残念ながら鏡夜には疲れないという常識外れの特質はついていない……。
「あれは、無理では?」
華澄は胸に手を当てて小さく深呼吸して、気を取り直してから言った。
「確かに、今ある手札では足りませんわね。……根本的に意味がわからないですわ……。クエスト『カーテンコール』よりも数倍巨大なものを、どうやってこんな短期間で搬入しましたの……? クエスチョン『パレード』は人間大でしたので、まだ常識の範囲内ですが……」
華澄は頭を抱えている。
「くすくす……対策が早いですね。初見殺し、新たな能力と対応の応酬が一パーティと機械兵器群で成立している時点で、前例がない埒外かと……。未来観測機械の使用許可をアルガグラムに要請しますか?」
「蜘蛛の魔女が許可するわけありませんの……よし、会話で冷静になりましたわ。よくやりましたのバレッタ」
「くすくす……」
バレッタは華澄へ可憐に一礼した。
鏡夜は立ちはだかってきたロボットたちを思い返す。巨大機動兵器にはQuest。人型機動兵器にはQuestion。
「巨大兵器はクエストシリーズであり、人型ロボットはクエスチョンシリーズだと」
鏡夜の呟きに華澄は頷いた。
「〈Q‐z〉の名前をアレンジした、識別コードですわね。エーデルワイスのネーミングセンスは優れているのは認めざるおえませんの……あの魔術師……ええ……今回は、わたくしが対策を思いつきましたわ」
「え、マジです? 早くないですか?」
「貴方に早いとか言われたくないですわ。ふふ」
そう笑って両の手の平を合わせて、パチンと手を叩いた。パーティメンバー全員が華澄に注目する。崩れて消失した片手が回復し、性能を確認するように手の平を閉じたり開いたりしていたかぐやも立ち上がって華澄へ顔を向ける。
「ただ、準備に一日かかりますの。明後日まで、しばらくお待ちくださらない?」
「……願ってもないですが」
鏡夜では毒々しい銅の巨人をどうにもできない。
「何かお礼をするべきでしょうか?」
「………」
華澄は驚いた。鏡夜は華澄と目を合わせて首を傾げる。
「いりませんわ。わたくしたち、互恵で……協力しあっておりますから。チームプレイにいちいち貸し借りをしては、煩わしいだけですの」
「なるほど」
「ていうか我が君の方がよっぽど活躍してるし白百合華澄を助けてるんだから、そうなると都合が障る――悪いだけじゃない?」
「かぐやさん、シャラップ」
「シャラッ……ああ、命令? 了解」
かぐやは口を糸で縫い付けるような動作をして、沈黙した。華澄は肩を竦める。
「それもありますわ」
「別に誤魔化してもいいのに……」
「信頼関係に嘘を吐くほどアマチュアではございませんの」
「プロ意識ですか」
かなり誠実な。しかし、今日、明日に第二階層にチャレンジできない以上、鏡夜は、後回しにしてきた、たくさんの事象を消化する必要が出てくる。
「いったんダンジョンから出ましょうか」
さて、何をどうするのか……考える必要がありそうだ。
決着の塔を脱出して、攻略支援ドームエントランスに戻る鏡夜一行。
「ではわたくし、本当に事務的な仕事をしてまいりますの。ご要望があるなら、考慮いたしますが、何かございます?」
「特には――、ああ、そうだ。バレッタさんに聞きたいんですが魔王様ってどういう方なんですか?」
バレッタは歌うように語る。
〈ほすてっどすてーつおぶでめびぃる? ユナイテッドツテイツオブアメリカ……〉
「H・S・Dって漢字が書くと、どう書くんですか?」
「こめと書いて米国です。Demevilのmeが変化して米です。名称自体を全て漢字にすると……」
バレッタは自分の手の平を鏡夜に向けるとさらさらと指文字を描く。
「出米毘留です」
「米国……ええ、知ってますよ、あの、東の海を越えた先にある大きな大陸ですよね。ええ、ありがとうございます」
米国大統領が魔王として契国(形も位置も日本)でダンジョンアタックしてる、その理解で正しいのだろう。
意味がわからすぎて怖い。だが納得し向き合え――会わないといけないのだ。
外交筋に根回しして会談の申し入れとかしなくていいのか。と鏡夜は内心乾いた笑いをしながら心の中でジョークを飛ばす。
華澄はお礼を告げた鏡夜へ別れを告げる。
「では、何か突発的事象があればメールを送って下さいませ、考慮はしたしますの。では」
華澄はバレッタを引き連れて鏡夜とかぐやと桃音と別れ、受付裏側の扉へと入っていった。
鏡夜は、空いた時間に何をしようか考える。やることはありすぎる。全部やるのは、少し難しい。
鏡夜は、受付の染矢に尋ねた。
「私、今まで一度も魔王様にお会いしたことないんですけど、いらっしゃいま
す?」
「あーと、ジャルドさんは夜に活動していらっしゃいますので……あと二、三時間待つ必要がありますかね」
「うーん、なるほど……? 夜、夜ですかぁ」
となると……鏡夜は魔王へ自身にかかった呪詛の内容を尋ねようかと考えていた。そこまで思い出して、ふと、忘れていたことがあったと気づいた。
そういえば、自分の能力の中で一つ、わかっているにも関わらず深く調べていないものがあった。
「染矢さん、大きな鏡がある部屋ってあります?」
「ご自分で出せばいいのでは?」
びっくりした。明け透けに断ち切ってくるな。
「私の、能力ではなく、化学工場とかで生産されているような、シンプルな鏡、ミラーでお願いします」
「…………トイレですかね」
「ああ、なるほど」
鏡夜は一つ頷くと、お礼を言ってトイレに向かった。
じゃあトイレ行ってきます、と鏡夜は桃音とかぐやに行って男子トイレに入り――すぐさま、ばつが悪そうに出てきた。
「鏡が小さいんで」
鏡夜は少しだけ恥ずかしそうに、男子トイレと女子トイレの横にある多目的トイレに入った。思った通り、かなり巨大な鏡が設置されている。理想通りだ。
鏡夜は多目的トイレの鏡に手を突っ込む。いつか鏡の中に手を突っ込んだ時、鏡夜の手は鏡の中に入った。
検証だ。
いつかと同じように、手を鏡の中に突き入れる。
……しばらく待ってみるが、特に痛みや違和感はない。慎重に、肩まで突き入れる。
次にもう片方の腕を。
(………よしっ)
鏡夜は、ついに意を決して、鏡の中へ頭を突き入れた。
鏡の中は暗闇の中に、たくさんの窓が浮いているような空間だった。鏡夜は茫然とする。
「鏡の世界も異世界っていうのかぁ?」
鏡夜は一人呟いて、内側から鏡の枠を掴むと、全身で鏡の中に潜り込んだ。
ふっ、と、床もないのに鏡夜は暗闇の中に立つ。
今まで一番ファンタジックで、オカルトで、意味不明な出来事だ。異世界へ来た一番最初の始まりを除けばだが、と、鏡夜は振り向く。
鏡の中から多目的ルームを覗く。
まったく見覚えのない二十代中盤ほどの契国人女性が唖然とした表情で鏡の中にいる鏡夜を見ていた。
「……こんにちは!」
鏡夜はとりあえず笑顔で挨拶をした。
「……嘘でしょ! 嘘でしょ!? なに、なにこれ!? 何が起きてるの!?」
「………貴女、誰です?」
鏡夜はとりあえず首を傾げて尋ねる。しかし、多目的トイレに入った女性は心底戸惑い慌てるだけだった。
「ありえない!! 異界技術なんて話じゃない! 基礎の生態系もないのに! 神代でも絶対にこんなことは起きない―――――!!」
「あの……」
戸惑う鏡夜の中で、今までまったくなかった、第六感のような何かが鏡夜に
言った。
鏡夜は、鏡に映る光景を操れる。と。
(気持ち悪)
率直な気持ちだった。まるで何度も何度も暗記して身体に覚え込ませた常識が、意識することもなく思い出せるように、鏡夜は、自分の能力を理解した。
……こんな、第六感で理解できるなら、最初から全ての呪詛の内容を理解させるべきだろう。
まるで、鏡の中に入り込む能力だけが、他と違うもののようだ。
鏡夜はパチンと指を鳴らした。周りの暗闇が変化する。
鏡夜の周りの空間が変化する。暗闇の中に、パチパチと暖炉が燃える洋風の部屋で鏡夜は真っ赤なロッキングチェアに腕を組んで座った。
「私の名前は、灰原鏡夜と申します。貴女の名前は?」
「……!? ……!?!?!? なにこれぇ?!」
「はぁ……」
鏡夜は鏡に映るものを、一般的な鏡と同じにした。まるでマジックミラーのように、向こう側からはただ多目的トイレと自分だけが映るようになる。
「ちょ、ちょっと! ちょっと待って!! ねぇ、どうやったの!」
鏡をどんどんと叩く女性を見ながら、どう対応するか鏡夜は腕を組んだまま悩む。ロッキングチェアを何度も揺らしながら……うん、スムーズに会話するのは無理だな、トイレだし。
女性とトイレで会話するのは、マナーとして終わってる。と鏡夜は自分を納得させた。洋風の部屋を暗闇に改変し、鏡夜は、鏡の世界に戻る。
そして一度も振り返らず、暗闇の中を放浪する。歩いているのが飛んでいるのか漂っているのか。どうにも鏡夜が感じている触感は、筆舌に尽くしがたいものだった。
暗闇の中の窓には多種多様のものが映っている。そしてどう考えても決着の塔攻略支援ドームの中にある鏡に映る光景だった。
窓の大きさも、ドームの中にある鏡の大きさに準拠している……。
(どうも鏡の世界を、移動できるらしい。操れるらしい。なんて異能だ。まさに、鏡の魔人だ。言葉よりもなお、よりいっそう)
鏡夜が浮かぶように暗闇を移動していると、まず見えたのは――。
「華澄さん?」
鏡夜は、座っている華澄の姿が映る窓に近づく。華澄が携帯で何かを話している。
「ですから―――これは支援になりませんの。なぜなら、わたくしは、“買う”と言っているんですのよ?」
「―――! ―――!」
電話口の相手は何事かを叫んでいる。だが、何を言っているかはわからない。
「はて――、簡単な話ですわ。アルガグラムのものだと配送に時間がかかる。わたくしが求める水準に適うものは、貴方のところの――機体だけですの。わたくし、実は小耳に挟んだのでしたけれど――久竜さんの件について、続報が」
「―――……!」
「いいんですの? このイベントをリークされた場合……確実に、めちゃくちゃになりますけれど」
「―――?」
「わたくしたちは大丈夫ですわ。いえ、大丈夫にしますの。貴方の失敗であり、我々の失敗ではなく――勝手にやってしまえばいいだけですから。脅しになりませんの。さぁ、さぁ、さぁ、わたくし――実は、答えを、一つしか聞く気がないんですのよ? 灰原さんを、待たせるわけにはいきませんもの。」
「―――……」
穏やかに、静かに、冷酷に、華澄は交渉をしていた。鏡夜に先ほど告げた通り、準備をしているのだろう。
具体的に何を話しているのかは雲をつかむように読み取れないが――。対策でもしているのだろうか。暗号や符号で会話をしているのかもしれない。
あまり仲間を長く観察するのも申し訳ないと、鏡夜は華澄の控室の鏡から離れた。
鏡夜は思いついた、ひたすら上に上がった。決着の塔の中に、鏡に類するものが在れば――そして上階であればあるほど―――決着の塔の攻略を効率的にできると思い至ったからだ。
しかし、ある程度の高さまで来ると、すっかり窓がなくなってしまった。
……どうやら、決着の塔に、鏡の出入り口はないらしい。
もしかしたら決着の塔のセキュリティによって、外側からの能力干渉が制限されているのかもしれない。
いいアイデアだと思ったのだが、と鏡夜は残念がった。
収穫がなかったので、下に降りていくと、一番最初に通りがかった窓にミリア・メビウスが映ったので、鏡夜は、移動を止める。
……あと一人だけなら、と鏡夜は、窓からミリア・メビウスを覗く。
ミリア・メビウスは、最上階のホール、ステージの上に座ったままだった。
しかし、彼女の座り方は極めて………横柄だった。肘掛けに肘をかけて、頬杖をついて、足を投げ出して、中空を薄目で見上げている。
修道服を着ているのに、まるで覇王のようだった。
「そうだ」
穏やかな質に反して、恐ろしく重い声だった。鏡夜は彼女の様子を鏡越しに窺う。
「私は回帰する。私は覚えている。テレビに映る美しい聖女。あの輝き。あの魅力、あのアイドル性! 世を導くは聖女である。世を救うは聖女である」
ミリア・メビウスは、世界そのものへ覇気を叩きつけるがごとく宣言した。
「―――世を統べるは聖女である。ああ――、私はあの美しいセピア色の憧れを回帰する」
そう言って、ミリアはふん、と鼻を鳴らした。
「ファンがいないと張り合いがない」
ミリアは、何かを求めるように、懐かしむように目を細めた。
(……回帰は回帰でも、自分の理想へ回帰するってか?)
なるほど、どうも、灰原鏡夜とミリア・メビウスは、願いに対するスタンスが似ているらしい。願いを自分のためにしか使うつもりがない。親近感と――なにより、こいつに願いを叶えさせてはいけない、確信だ。
鏡夜の願いは、自分にしか向かっていないが、ミリアの願いは世界に向かっている。世を統べると呟くやつに、世界の命運を渡すわけにはいかないだろう。
「笑える話だ。世界の命運? どうでもいいと言ってる奴が、世界征服を目指す奴を気にするのか?」
鏡夜は苦笑いをしながら、ミリア・メビウスの鏡から離れた。
ふと、鏡は思いついて、鏡の中の世界をこねくり回して、真正面に来た窓を通った。
鏡夜は桃音の家のバスルームの鏡から頭を出した。
「距離の制限もねぇのか」
無法だ。今までの、どんな能力よりも無法で逸脱して異常で無体だ。鏡を媒体にして、どこにでも移動できるなんて。
ていうか、鏡の世界をしっかりと検証していれば……いれば………。
「〈Q―z〉のボス、キー・エクスクルに繋がる鏡よ来い!」
しかし、なんの反応もなかった。
さて、どちらだろう。あいまいな情報では、鏡の移動ができないだろうか。もしくは、キー・エクスクルが、鏡夜が移動できる場所にいないのか。
「現在の桃音さんの場所!」
しかし、なんの反応もなかった。具体的に、明確に、場所を意識しなければ、ひとっ飛びで移動することはできないようだ……。
「ドームの多目的トイレ」
とやると、鏡夜は即座に、多目的トイレ前の鏡の世界に移動した。
先ほどと同じ配置に鏡の窓がある。どうやら意識した一つのポイントを起点にして、周辺の鏡の位置や窓を、暗闇の世界から確認できるようだ。
こんなもの、デメリットにもなっていない。有益でしかない能力だ。
さて、多目的トイレ以外から現実世界に帰還する必要があるが、鏡夜が通り抜けるに足る大きさの鏡はなかなかない
右往左往して、あっちこっちを探し回っていると、ひときわ巨大な鏡を発見した。
(こんな大きさの鏡があるなら染矢さんが案内しねぇか?)
しかし、鏡夜の前には鏡がある。他に通り抜ける窓もない。と鏡夜は覗きんだ。
白い壁? と照明が映っている。人の影はない。……鏡夜は、よし、と鏡の窓を通り抜け。
鏡夜は、決着の塔攻略支援ドームにある風呂場の湯船から飛び出すと、身体を一切濡らさずに、湯船の縁に両足で降り立った。
………背後に、生き物の気配がする。鏡夜は咄嗟に振り返った。
恐ろしいほどに背が高く、恐ろしいほどに頑強な肉体をした、人の形をしていながら異形としか思えない男が、湯船に浸かっていた。
……凶悪な表情を浮かべる目が濃すぎる渦巻く闇の魔族がいた。瞳がまるで闇の嵐のごとく渦巻いていた。
魔王の肌には入れ墨――なのだろうか。びっしりと、黒い図形が並んでいる。もとの肌の色も黒いのに、入れ墨はもっと黒かった。まるで光源のない闇のようだった。
そしてもちろん、鏡夜は彼に見覚えがあった。
「これは、これは。魔王陛下。お会いできて光栄です」
人外の代表、決着の塔挑戦者最後の一名――。間違いなく、異形、人外の王。“魔王”だった。いい湯だな、みたいな場所で初遭遇するべき者ではなかった。
鏡夜は優雅に帽子を取って一礼しようとして、帽子が取れないのを思いだした。やばい、自分が感じているよりも絶望的に焦燥している。しかし、気取られるわけにはいかない。舐められてはいけない。動揺を読み取られるな。
だから、鏡夜は微笑を浮かべて大袈裟なまでに演技めいて告げた。
「ご入浴をお邪魔して、申し訳ありません、すぐに失礼しますね」
鏡夜は革靴で(公共の風呂場に革靴で入らないといけないとは!)湯船の縁
から床に降りると、自分でもありえないくらいと思うほど、礼儀正しい所作で、風呂場から外に出た。
鏡夜はとりあえず無人の脱衣所を出て廊下に戻り一息ついた。鏡から出るはずなのになぜ風呂場の水から出たんだ?
鏡夜の記憶は、魔王が入っていた湯船の中身を思い出す。透明ではなかった。綺麗に天井と照明を映す――緑色に染まった水だった。
ナルキッソスは水面に“映る”自分に恋をしたと言う。……水も鏡扱いらしい。
(無法か?)
鏡夜の発想すら超えて能力の応用性が高すぎた。
……だが、調べた甲斐はあった。得た情報もあった。……得たリスクもあった。次に魔王に会う時が怖い。ものすごく、どういう意味付けをしたらいいのかまったくわからない遭遇をしてしまった。
最悪、湯船魔人呼びされてしまうかもしれない。
けれど魔王を避けるわけにもいかない。呪詛に悩まされる鏡夜は、呪詛の最高峰の存在である魔王と会話をする必要がある。
逃れられないタスクである。
鏡夜は、はぁ、と憂鬱になりながら、ドームを下に降りていく。風呂場は五階にあったので、一階まで戻り、多目的トイレに戻る。
パパッと検証を終わらせて桃音とかぐやのところにすぐ戻るはずだったのに、探るべき懸念事項が多すぎて――かなり時間がかかってしまった。
もう夜も目前だ。染矢の言う通り、夜に活動している魔王がドームに来ていた以上、鏡夜の体感よりも待たせてしまったのは明らかだ。
憂鬱である。
鏡夜が多目的トイレ前に戻ると、桃音が女性の襟首を掴んで宙吊りにしていた。鏡夜には女性に覚えがあった。多目的トイレで会話にならなかった人だった。
「……なにしてるんです?」
「……さあ?」
かぐやは肩を竦めた。桃音は鏡夜が廊下から来たのを確認すると、女性から手を離した。女性は……気絶していたのか、床へ横になって倒れてしまった。やばい音はしなかったので、一応頭や身体を打ち付けはしていないようだ。桃音が気を遣ったのだろうか。女性の健康状態に気を遣えるのなら宙吊りをしない気遣いもできたような気もするが。
「我が君どこ行ってたの? 女の人が豪華な厠……トイレに入って行って、止めようと思ったら、……女の人が騒いでるだけで、我が君はいなくなってたし。不語桃音が、突然女の人を無言でしばきはじめたし」
「あー」
(どこ行ってたんだろうな)
「……鏡の中まで」
「かがみ?」
かぐやはものすごく不思議そうな顔で鏡夜を見た。疑問符を飛ばされても、そうとしか言いようがない、と鏡夜は思った。
「とにかく、そちらの……誰かさんを、病室か病院か保健室かへ、お運びしましょう……受付に行ってきますね」
鏡夜は駆け足で受付に向かった。魔王に会うのを先送り云々の前に、やはり、人道的配慮からそうすべきだからそうするために。
受付の染矢に事の次第を伝えたところ染矢はすぐに行動してくれた。自動担架マシーンと一緒に染矢オペレーターがトイレ前に倒れた女性を回収しに行く。鏡夜も同行したのだが……。染矢は表情を引きつらせていた。マジか、こいつらマジか、みたいな言葉が顔面に張り付いていた。
しかし、染矢は特に言葉を荒らげず、マシーンに事務的な入力を素早く行い、女性を担架に乗せると(アームが丁寧に持ち上げて自分のボディに寝かせた)。
染矢は女性を医務室へと運ぶ。鏡夜たちも医務室へとついていく。
……いつかお世話になるかもしれない施設であるし、行ってみるに越したことはないだろう。単純に、心配でもあるし。野次馬根性であると指摘されれば、その側面もあるが。
医務室は想像していたよりも巨大だった上に複数あった。一つの扉の前を通る。壁に掲げられた名札には、かつてバレッタより聞かれた英雄パーティの名前が晴水を除いて並んでおり……。
久竜晴水たちのパーティが、医療ポッドの中で寝かされていた。
次の部屋を通り過ぎると、今度は見たことも聞いたこともない四つの名前が名札に掲げられている。
中をちらりと覗いてみれば……異形が並んでいた。。
(確か華澄さんが、『カーテンコール』に魔王の四天王が磨りつぶされたってつってたな)
異形しかいないなら、推測は間違いではないだろう。
そして染矢は、第三の部屋、他の二つと比べても小さい、医務室の医療ポッドに女性を寝かせた。
「よし――と。では、灰原さん、何があったんですか?」
「少々説明しづらいですけど……かぐやさんお願いできます?」
「りょーかい、我が君」
そしてかぐやは、先ほど鏡夜にした説明を同じように染矢へと語った。
染矢は頭を抱えて溜息を吐く。
「つまり、こちらが誰か、ご存知ないと」
「そうね。突然男子が入った厠に突入する、ヤバい人としかわからないわ」
「喜連川さん……。簡単に説明するなら、久竜晴水さんのパトロンであり、契国に強いコネクションを持つ要人……です」
「なんと」
鏡夜は驚く。そして尋ねる。まず気になるのは。
「私の塔の挑戦に、なんらかのデメリットがあります?」
染矢は数秒黙考して言った。
「ないです。貴方は別に何かに所属しているわけでもないので――。塔の攻略者に圧力などあってはならないわけですし」
染矢は冷たい瞳で、目を回して治療ポッドに横たわる女性を見下ろしていた。
「わかりました。灰原さん。後は私がなんとかしておきますので、どうぞご帰宅していただいても大丈夫ですよ!」
「うん、帰った方がいいんですか!」
鏡夜はむしろ嬉しそうな顔で染矢の言葉で反応した。
「え? あ、ジャルドさんに会うんでしたっけ? ご自由にどうぞ」
「……ありがとうございまーす」
正直、今日魔王に会うのが気後れしていたので鏡夜は物憂げな顔をした。染矢は、鏡夜の謎の感情的反応が理解不能なので目を白黒させていた。
「我が君、会いたくなかったら会わなくていいんじゃない?」
「時間がもったいないですし……? せっかくですから?」
そう言って、鏡夜は染矢に礼を言うと、桃音とかぐやを連れて医務室から退室した。
魔王が先ほどまでいた浴場前廊下をあちらこちらと探すが、魔王の影も形もなかった。無策であちらこちら探すのも面倒だと、鏡夜が悩んでいると……。
桃音が突然、鏡夜の頭を掴み窓に押し付けた。
「へぶっ……」
鏡夜はなんだ、と桃音へ不服そうな表情を向けるが、桃音はガン無視して窓の外を見ている。
かぐやはほわほわと笑いながら人差し指を伸ばして、桃音に向ける。しかし、桃音はガン無視して窓の外を見ている。
「………あ、かぐやさん、少し待ってもらいます?」
「なんで?」
かぐやは平常通りの、人間味のまったくない可憐さを保ったまま人差し指を光らせている。光が強くなっていく。鏡夜が止めなければ、かぐやの光線は桃音に向かって発射されるだろう。
「ああ、……魔王様、見つけました」
と鏡夜はかぐやの真似をするように人差し指で、窓の外を指さした。訓練場の広場で独り、鏡夜へ指を指して笑っている魔王がいた。魔王の隣には、黒い修道服に赤い稲妻のような線が走った女性がぴったりと張り付いている。
桃音は鏡夜が見つけたと言った後に、鏡夜の頭から手を放す。窓に押し付けられていた顔を離して、鏡夜は溜め息を吐いた。
……だが、もう時間を引き延ばせない。鏡夜は魔王に会うために訓練場へ向かった。
「―――なんで存在できてんだ? お前」
開口一番、魔王が鏡夜に言った言葉だった。
「まさか生存どころか存在すら疑われるとは」
存在に疑問を呈されるほど湯船から突然現れたのが失礼だったのだろうか。
うん、失礼である。もし鏡夜が風呂でリラックスしている時に不躾な闖入者が湯船から出現したなら、鏡夜は恐慌、逃走のち激怒する。
「改めまして、はじめまして、魔王陛下――灰原鏡夜と申します、こちらはかぐやさん、不語桃音さんと」
鏡夜は、とりあえず落ち着いて挨拶をする――。探りつつ、だ。魔王は口をへの字に曲げて言った。
「ジャルド。ただのジャルドだ、んでこいつは――」
魔王はべったりと自身に張り付いて幸せそうに笑っている黒生地に赤い稲妻模様が走る修道服を指さして言った。
「アリアだ」
「はぁ、どうも、初めまして」
反応に困る。たしか四天王とかいう、魔王の配下は全滅していたはずだ。話題にも上っていなかった。となると状況証拠的に……情婦とか愛人とか? 奥さんだったら申し訳ないが。
魔王は鼻を鳴らす。
「魔人、魔人と前評判が五月蠅かったが、実物はどんなもんかと思えば、期待以上を超えて異常じゃねえか」
「私、どんな風になってるんです、そんな風に言われる筋合いってあります? ホント」
存在疑問に加えて異常呼ばわりは、流石に少し傷つく、と鏡夜は拗ねたような表情をする。
「そりゃ当然だ。俺が置換してんのは肌だけだがァ、お前が差し出してんのはなんだ? お前自身すら危うくなるほどだろうよ。そんなもん一個でも過剰――いや――」
魔王はアリアに待ってろと伝えて離れると、ずかずかと鏡夜に近づき、鏡夜が身に着けている帽子を鷲掴みにする。身体の大きさが異常なほど違う。手が巨大で、鏡夜の頭がすっぽり包まれてしまった。
魔王は驚いたように叫ぶ
「食い合わせしてんのか!!」
「……食い合わせ、ですか?」
(手が帽子よりでかくて魔王の顔が見えねぇ)
魔王の手の下にいる鏡夜は薄暗くなった空間で尋ねる。
「この帽子は【弱点看破/言語忘却】だよな」
「―――ノーコメントで」
秘密とはまではいかないが、殊更明言していなかった特殊能力を直球で指摘されて、鏡夜は誤魔化した。誤魔化したというよりかは、わからないだけだが。
魔王は続けて言う。
「弱点を透視する能力を得る代わりに言語を失くす。弱点を見抜けるが誰かに伝えられない。クソみてぇに性格の悪ぃ呪物だが……お前、喋れてる。意味がわからないバケモンかと思ったが、この、これだ」
魔王は鏡夜の頭に乗せていた手で、今度は白いシャツの襟を摘まむ。
「シャツは【全言語習得/治癒不能】だ。あらゆる言語を操れる代わりに治癒能力を失くす。万の言葉を操れるが、一つの傷すら治せない。ヒャハハ」
魔王はおかしそうに笑う。
「つーまりーだ。言語を失くしちゃいるが、そこに全言語を操るっつー恩恵を被せて実質踏み倒してんだよお前。おぞましいな、イカれてる。どんな馬鹿みてぇな不具合が起こるかわかったもんじゃねぇぞ。規格が違うコンセントを漏電を前提にして無理やり使って感電死したり電気回路が壊れて爆死しないように祈るようなもんだ」
耐えきれないとばかりにニヤニヤと、魔王は言った。
「お前の身体、もう六割以上人間でも人外でもねぇぞ――こりゃもう呪詛の擬人化だな!!!!」
「―――例えば、私の眼とかですか?」
「ああ? ああ―――そうだなぁ、流石に神代の最高峰だから効果しかわかんねぇし、それ以外はブラックボックスだが、推察はできる。なにせたぶん俺と同じだ。俺は肌を置換してるから――ほら、こんな風に入れ墨だろう? 変わるんだよなぁ。弱点看破っつー機構がお前の目に入ったのなら――変わるんじゃねぇの?」
「なるほど、なるほど」
鏡夜は全身が泥水に使ったような最低最悪の気分のまま、最高の微笑みで何度も頷いた。
理屈としては、納得できる。
呪いは生体機構における“何か”とトレードオフだ。
呪われれば呪われるほど通常の身体からかけ離れる。
既存の肉体を変質させて魔法のごとき奇跡を起こす。進化と退化を引っ掻き回す生体操作。
灰原鏡夜は、驚異の、半分以上が完全に呪いと化してしまっている。
瞳や髪の色が変わっているのはそのためだ、と。
あまりにも呪われれば生活どころか生存も危ういのだが、呪いの“食い合わせ”の奇跡的バランスによってデメリットをほぼ踏み倒している状態だと。
突然変異、呪詛の申し子。そうかそうか―――。
「お前が俺の国出身者だったら、人外の王なんて定義をぶっちぎって魔王になってたかもな? 流石に俺も呪いで呼吸して呪いで歩行して呪いで生存するのは無理だわ。つーかどうやったんだよマジで。現代に生きてる神どもはもう本当に落雷を喰らうよりもごくごく低頻度しか呪詛をしねぇのに」
「さっぱりわからないんですよ」
許さない。鏡夜は魔王へ優雅に返答しながら、大激怒を完璧に抑えきって、心底、魂の奥底からそう思った。自分を呪った誰かへ――何かへ――、骨の髄まで、目にもの見せてやる、と。鏡夜は、彼の人生で一度もなかった本気の怒りを覚えた。軽薄で、弱さに肯定的な鏡夜の器をぶっちぎる、圧倒的最悪な現状を確認して、感情が大荒れの海を蒸発させそうなほど、沸騰していた。
「ある日、気づいたら、こうなってまして――、だから、呪いを解くために此処にいる次第です」
「ふーん? 神話みてぇだな、呪いを解くために冒険するなんて」
そう言って、魔王はニヤニヤと言う。
「〈決着〉を選んだのは、英断だよ。真の魔人。お前の呪詛は俺にも、誰にも解けねぇ。何かまかり間違って、どこぞの観測不能な神様がお前の呪いを解こうとしても――無理だよ。断言する。支配級かつ解呪に長ける神ですら、お前の呪いは解けない。こんなもん、塵になって世界に散乱した死体をよみがえらすような、不可能をさらに不可能にするような、どうしようもなさだ。」
神代ですらありえない。実現できないだろう圧倒的呪詛量。呪われ過ぎた者を魔人と呼ぶが、呪われ過ぎという形容すらぶっちぎった圧倒的呪われっぷり。まさしく真の魔人と呼ぶにふさわしい。
「最初から神様になんて頼ってませんでしたけどね」
なぜか最初から選択肢になかった。決着の塔が――巨大なチャンスが転がっていたから、横道の第二案を検討する暇がなかったのだ。――検討する必要は最初からなかった。無理だと。決着しかないと。
なんとも、ろくでもない。
「魔王様、お願いがあるのですが、私がどのように呪われてるか、鑑定していただけませんか?」
「あー? いい……」
途中まで言って、ジャルドは言葉を止めた。そして心底楽しそうに愉快そうに魔王は言う。
「待った、よく考えてみろよ。タダで、善意で人助けする魔王っているか? どうぞお悩み解決します魔王です、なんて、いつでもどこでも洒落にならねぇ、つまんねぇ。そうだろ?」
「いてもいいと思いますけど」
「俺は認めねぇ。だからさ――、ほら。俺の配下にならねぇ? 四天王が全滅して普っ通にきつくてさぁ」
(またかよ)
二度目である。ミリア・メビウスに続いて二度目だ。
「はい、お断りします」
「どーしても?」
「どーしても」
「そ、じゃあそうだなぁ……んじゃ仲間貸して」
「ダメですけど」
何言ってんだ、と鏡夜は呆れた顔をする。貸す貸さない云々の話ではなく、彼女たちは各々勝手に協力しているだけに過ぎない。
「ていうか、私にそういう権利はないので、ご勝手に交渉した方が絶対いいと思いますよ」
「お前以外にまともに話通じそうなのいなくね」
「普通に話せ……話せますよ……?」
「自信なさそうじゃねぇか」
人形と人形と沈黙の超人と油断ならないお嬢様エージェント相手に、人懐っこいとか愛想良いとか表現するのは、もう嘘である。
「ちっ、じゃあ、わかった」
魔王は両手を構えて、鏡夜の前に構えた。
「ちょいと、遊びで手合わせしようぜ――そしたら、お前の呪詛の内容教えてやるよ。喜べ」
「あら、ありがとうございます」
鏡夜はかぐやと桃音に下がるように伝えると、魔王相手に構える。いつかの桃音相手にした慣らしを思い出し――腕をぶち折られた記憶を想起して憂鬱になった。人間をほぼやめているなら、痛みも抑えてほしかった。
鏡夜は軽薄な人間であるがゆえに痛みも苦手なのだ。