決着の決塔 【カーテンコール(前半)】

 むかしむかし。あるところに勇者と魔王がいました。
 
 凄惨な人類と人外の戦争に嫌気がさした勇者と魔王は、争いの幕を閉じるために一計を案じることにしました。
 
 勇者は言いました。
 
『いったん、停戦しよう』
 
『だが、いつか全ての〈決着〉をつけよう』
 
 人類は、怨恨と厭戦を両立させた、先延ばしの提案に乗りました。
 
 
 
 魔王は言いました。
 
『いったん、停戦しよう』
 
『だが、いつか全てを〈清算〉しよう』
 
 人外は、恨みと立て直しを両立させた、先延ばしの提案に乗りました。
 
 
 
 そして、勇者と魔王は【聖域の塔】にて、契約を結びました。
 
「いつまで停戦することになったんですか?」
 
 その質問に、勇者と魔王は笑って答えました。
 
『『千年だ』』
 
 
 
 〔勇者と魔王のジョーク集 【契暦始め】より抜粋〕
 
 
 
 
 
 
 
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 〈契歴999年 12月31日 23:58〉
 
 〈日月の契国 塔京都 貝那区 【決着の塔】〉
 
 
 
 頂点が見えないほど高い、巨大な塔。
 
 その地表部分へぐるりと一周、纏わりつくように真新しいドームがあった。ドームの高さは三十メートルもあったが、比較対象の塔が規格外なため、スケール感が小さく見える。
 
 しかし、このスケール感が小さくなってしまっているドームこそが、契国が肝いりで新築した、決着の塔攻略施設だ。名前はそのまま安直に【決着の塔攻略支援ドーム】である。
 
 深夜にもかかわらず、ドームの丸屋根中央から伸びる古めかしい石造りの塔を含め、煌々と建物全体がライトアップされている。そのせいで塔とドームの周りだけが、まるで昼のように明るかった。
 
 
 
 そして、決着の塔攻略支援ドームの中にはステージホールがある。木造の豪華なステージにヴィンヤード型、四階建ての客席。
 
 その客席には一階から四階まで、人や人外がひしめき合っていた。スーツ姿の鋭利な美貌の人間女性に頭から蛇が大量に生えた中年男性。椅子の上にぽつんと置かれている小さな箱らしき生き物などバラエティに富んでいる。
 
 
 
 二階、三階、四階部分には一般応募の観客が身を乗り出すように、未だ幕を閉じている舞台に注目している。一階の賓客席も落ち着かない様子の各国の著名人が赤い座席に座って今か今かと開演を待ちわびていた。
 
 
 
 会場に、開幕を告げる音楽が流れ始めた。一階客席前とステージの間、オーケストラピケットに裏方として控えている楽団が美麗な音を奏で始める。
 
 ヴァイオリンに属する楽器が、一斉に走り出すようにアップテンポな曲を演奏し、興奮はもはや最高潮と言って良い様子だった。この場に集まっている群衆はもちろん、テレビやネット中継でこのセレモニーを見ている世界中の人類人外も固唾をのんでいる。人の目、異形の目とともに、カメラの目も輝いているようだ。
 
 
 
 待ち望んでいた時が来た。千年の停戦を超えて、決着がつくときが来たのだ。
 
 
 
 赤い幕が上がる。
 
 音楽と興奮を一心に向けられる舞台には、一人の人間男性がいた。白い和装仕立ての軍服にマントを着た彼は、堂々と、自然に佇んでいる。紹介など必要なかった。誰もが彼を知っていた。
 
 
 
 彼こそが契国の王、日月の象徴。柊釘真だった。
 
 
 
 彼が視線を上げて、正面を見つめたと同時、音楽は消え行くように静かになった。
 
 そして、訪れた静寂を彼は再び切り裂いた。自らの言葉によって。
 
 
 
 
 
「この日を、私たちは待っていました」
 
 感慨深く、柊王は言った。
 
 
 
「契暦以前から、非戦闘中立である聖域を、私の血族が保ってきたのは、この決着を果たしてもらうためでした。種族の垣根なく、聖域の名に恥じぬよう、王としてここを治めていたのは、恥辱なくとも全てを清算できると今に、証明するためでした。私たちは幸福でしょう。未来も過去も羨むほどの、決着の時にいるのですから」
 
 柊王の、聞く者の心根を震わせるような響く声は、世界中へと届けられる。
 
「そして……ここにいる勇士たちが、私たちの友人です。私たちの代表であり、象徴となります」
 
 同時に柊王の後ろ、白い幕が開いた。
 
 おおおぉ……と観客は感嘆の声を漏らす。
 
 
 
 
 
 今代の〈勇者〉がいた。小柄でシニカルな人間の少女だった。
 
 今代の〈魔王〉がいた。凶悪な表情を浮かべる目が濃すぎる渦巻く闇の魔族だった。
 
 神代の徴たる〈聖女〉がいた。ふわふわとした青髪の柔らかな女性だった。
 
 現代の〈英雄〉がいた。青年になりたてだろう、若さと精悍さを持つ黒目黒髪、契国人だった。
 
 ……勇士たちの後方に、塔の入り口が見えた。細工が施された石造りの巨大な塔、その固く閉じられた門だ。あと少しで開く。
 
 
 
 
 
 誰もが思う。待ち望んだ始まりだ。
 
 
 
 
 
 柊王は高らかに謳い上げる。
 
「彼らのうち、誰かが塔に封じられた〈決着〉を手に入れるでしょう。彼らが、人類と人外の決着をつけるのです。……それは他人事を意味しない。かつての勇者と魔王が私たちに託したように、私たちも、彼らに願いを託すのです」
 
 
 
 そして柊王――釘真は自分以外の誰にも届かないように、小さく呟いた。
 
「…………時が幕を開く。最初の、最後の幕が開かれる」
 
 
 
 
 
 
 
 〈経歴1000年 1月1日 00:00〉
 
 
 
 約束の時が訪れた時。
 
 契国の王も、勇士たちも、観客も、中継から舞台を見る世界中の人類人外も。彼も彼女も。その音を聞いた。
 
 
 
 ゴォオオオオ……
 
 
 
 風を切る轟音。それはステージホール天井の、向こう側から響いた。
 
 吊るされたシャンデリアが揺れている。まっすぐに、開幕式のステージへと巨大な何かが近づいているのが、震えと音で伝わる。
 
「ふむ……なるほど」
 
 柊王はそう呟くと、舞台からオーケストラピケットへひらりと舞い降りた。それに遅れて、彼の後ろにいた勇士たちもまた飛び出すようにその場から逃げ出す。
 
 
 
 そして風を切り、上から迫っていた何かは――巨大な鉄の塊は―――砲弾は。天井を突き破り、ステージに着弾した。天井の破片が舞い、木片が散り、シャンデリアから舞台までを直線で砲弾は突き抜け、道中にある、障害物の全てをはじき飛ばす。
 
 しかし、ステージへ着弾してもなお、砲弾が止まることはなかった。まるで冗談のように地面へ半分埋まった状態で、さらに砲弾は進み続ける。
 
 舞台の後ろから大きな通路を進んだ先にあった、【決着の塔】の入り口。千年の期限が来ていたがゆえに、ゆっくりと上に開いていた分厚い金属の門。それに砲弾が当たるが、一瞬でその鉄門すらも歪み壊し、砲弾は塔の中へと突き進んでいった。
 
 
 
 先ほどの面影が一切なくなるほど無残な姿となったステージホールに人々は騒然とする。埃と塵がもうもうと立ち込めている。そして、阿鼻叫喚の騒ぎが収まり死者どころか重傷者もいないことが明らかになった頃、観客の一人が言った。
 
「あれは、なんだ?」
 
 先ほど柊王が話していたステージの後方、千年ちょうどに世界へ披露されるはずだった扉。決着の塔入口。
 
 ひしゃげた鉄製の門、その上の壁面に、真っ黄色のペンキで大きく文章が書かれていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
        if you want to change the world, exceed me! Q-z
 
         ≪世界を変えたきゃ、私を超えろ! ――Q-z≫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 千年前の神代にはなかった言語、現代の英語で書かれた文章。弾丸が塔をぶち抜いた後に現れた言葉。
 
 そして、この破壊活動と、決着の塔へ世界を出し抜いて最初に侵入された事実を考えて、人々は気づいた。
 
 
 
 
 
     ―――――――――――これは、犯行声明だ―――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 〈契約〉より千年後、決着の時代。契暦の終わりにして歴史の始まり。
 
 大きな流れの中……日月の契国の首都、塔京の片隅、ある森の洞窟の中で、彼の物語は始まる。
 
 
〈呪ってやる呪ってやる。お前を呪ってやる〉
 
 
 
 〈この世界から消えろ!!〉
 
 
 
 〈地獄を! 責め苦を! 絶えることなく味わい続けろ!!!〉
 
 
 
 〈灰原鏡夜ァ!!!〉
 
 
 
 ――――――――――――――――――――――――
 
 
 
「………んあ? どこだ、ここ?」
 
 灰原鏡夜は目覚めると、自分が洞窟の中に寝転がっていることに気づいた。妙に明るい視界内に乾いた岩肌を捉えながら、首を傾げつつ立ち上がる。
 
「……ああ、なんだろうなっと。夢かなにかか?」
 
 いまいち現状を把握できない鏡夜は頭に手をやって気づいた。
 
「……なんだこれ、帽子? んなもん持ってたっけか?」
 
 
 
 鏡夜は自分の服を見てみる。
 
 
 
 手にはダークグレイの手袋。真っ白なシャツと灰色のベスト。明るいグレーの華美なジャケットとズボン、腰元にはシルバーチェーン。襟元には、これまた灰色の宝石でまとめられたポーラータイ。そして帽子を前に傾ければ帽子のつばも灰色をしていた。
 
「………ひっでぇ恰好だなぁ。カッコいいにはカッコいいが、似合いそうもない。ま、今着てるんだけどな。……さてさて、マジで夢っぽいなぁ。こんな鮮明なもん見たの初めてかも」
 
 
 
 鏡夜は帽子のつば先端を人差し指ではね上げた。
 
「足音が聞こえんな」
 
 コツ、コツ、コツ、と洞窟を踏みしめる音がする。音から二人いることがわかった。
 
 鏡夜はさらに夢だという確信を強める……ただの平和的男子学生である自分はここまで物騒な意味合いでの聴覚に優れてはいない。
 
 鏡夜は幾分か迷ったが、なんとはなしに隠れることにした。夢であるのならばどんな行動も自由ではあるが、この夢がどういう夢なのかがさっぱりわからない。故に、行動する前に調べてみることにした。自分の夢を調べるというのも妙な話だと、鏡夜は頭の片隅で思ったが、近くにあった石の裏、影になった部分に身を潜める。
 
 
 
 隠れてすぐに、足音の主たちが現れた。
 
「モンスター出ねぇなぁ……期間考えるとぜってー出るはずなんだが……」
 
 全身鎧、背中に盾、右手に大剣を持った男が歩きながらそう呟いた。その後ろには……。
 
「別にでなくたっていいだろうよ。今回は採取が目的だ」
 
 防弾チョッキらしき装備、手に小銃を持った男がいた。
 
 
 
(騎士っぽいのと軍人っぽいの……? 世界観ぐちゃぐちゃかよ。余計わかんねぇつーの)
 
 夢というのは理不尽で奇っ怪なものであるが、なまじ五感にリアリティがある分、違和感がひどかった。
 
 鎧の男は防弾チョッキの男に戒めるような調子で応えた。
 
「ばっかテメェアレだぞ? 冒険者ってのは、舐められたら終わりだ。こいつは頼りにならない、こいつは脅威にならないって印象は後々になって致命傷になる。結局、荒くれた職業だからな。ほかのパーティに利益を横取りされたりするのは序の口。自分がピンチに陥った時、仲間にすら舐められていたら、見捨てられて死ぬ」
 
 軍人らしき装備をした男は周囲を指さし確認で警戒しつつ呆れたように言った。
 
「それとモンスター希望になんの関係があるんだ?」
 
「俺はモンスターと戦うことを恐れない。むしろ望んですらいる。例えそれが平時でも、っつーアピールになる。こういう小さな見栄を張ることが大事なのさ。つまりはそういうことだ」
 
「ああ、そうかいそうかい……。よし、クリア。先に進もう」
 
「おう」
 
 そして、騎士らしき男と軍人らしき男……推定冒険者の二人組は、隠れた鏡夜に気づかないまま洞窟の奥へと進んでいった。
 
「………」
 
 鏡夜は二人組が見えなくなったのを確認すると物陰から出た。帽子を手で抑えて目元を隠しつつ、考えに耽る。
 
 
 
 
 
「世界観はいまだににわかんねぇが……冒険者がいることと、冒険者は舐められたら終わりっていう金言はわかった」
 
 
 
 鏡夜は二人の冒険者が進んでいった方向とは逆方向に歩き始める。会話を考えるに、彼らは外からこの洞窟内へ探検にきていた。ということは、彼らが来た方向へ行けば、彼らの入口で、つまりは鏡夜の出口だ。
 
 
 
 
 
「ま、とりあえずは外に出るか……こんな陰気な場所は、もううんざりだ」
 
 
 
 
 
 洞窟を進んでいると外に出た。鬱蒼とした森だった。洞窟入口から、どこかへ続くあぜ道が木々の間に続いている。
 
 鏡夜は生い茂った木の葉の合間から差し込んでくる日差しに目を細めると、あぜ道に沿って歩き始めた。しばらく歩くと視線の先にぽっかりと開いた場所があった。きれいな円形状の原っぱ。その中央に、小屋があった。
 
 
 
(…………ん?)
 
 
 
 こぢんまりとした小屋に誰かいると気配を察知したと同時、その誰かが出てきた。足音が聞こえない。視覚以外では、移動の際に空気を切る、あの微弱な揺れしか感じ取れない。
 
 異常に鋭くなった鏡夜の五感でも、幽霊のように虚ろな気配。鏡夜は警戒して、その人物を観察した。
 
 
 
 地味な……ともすれば陰気とも言える、黒目黒髪の女性だった。
 
 眼は半分以上前髪によって隠れており、服装も地味な紺色系で統一されている。上着もスカートもゆったりとした余裕のあるもので言ってしまえば文学少女、いや内気な文学女性……な風情だった。
 
 
 
「……………」
 
 茫洋とした顔つきで、その女性は鏡夜のことを見ていた。
 
「……これは、どーも。私、灰原鏡夜と申します。初めまして、お嬢さん」
 
 鏡夜は警戒ゆえに礼儀正しく挨拶した。そして、さらなる礼儀として帽子を取ろうとしたが、取れなかった。
 
(あっれ、取れねぇ)
 
 ぐっ、と腕に力をいれてみる。が、頭にがっちりとはまっているように微動だにしない。
 
「………」
 
 帽子を掴んで頭の上で引っ張る鏡夜に女性はなんの反応も示さなかった。相も変わらずぼんやりとした顔をしている。対して鏡夜は、彼女の無反応さに動揺することはしなかった。先ほど耳にした金言を鏡夜は忘れていない。
 
 この夢の中は、舐められたら終わりなほどに厳しいのだ。故に動揺も弱さも飲み込んで、飄々と対応した。
 
「ああ、怪しいものじゃありませんよ? 冒険者ってやつです」
 
 嘘も混ぜ込んだような気もするが、何、心はすでに冒険野郎だ。
 
 すると陰気な女性は無言無表情のまま、白いカードを鏡夜に投げてよこした。
 
「おっと」
 
 鏡夜はそれをキャッチすると、目を通す。名刺のように小さく固い紙だった。 鏡夜はその紙に書かれた文字を読み上げた。
 
 
 
「【名前:不語 桃音】【呪い:疲れない/話せない】【説明:私は喋れません。筆記ができません。手話ができません。身体言語ができません】【追記:これは代筆です】………なるほどー」
 
 
 
(……呪いって。世界観ぐちゃぐちゃかよ……! つーか、これ、印刷機でプリントした文字に見えるんだけど。ファンタジーとしての作りも甘ェな、いや、文字の造りは精緻ではあるが)
 
 内心で突っ込みを入れつつ、ふと鏡夜が気づくと陰気な女性――不語桃音が、眼前すぐ傍まで迫っていた。
 
(ンゲェッ……!?)
 
 やばい――と鏡夜は恐怖する。読み上げることに集中して彼女への警戒が疎かになった。その隙を突かれた。
 
 鏡夜は桃音にがしりと前腕を捕まれ。
 
「う、おお?」
 
 投げられた。勢いづいた背負い投げ。
 
「うおおおおおおおおお!?」
 
 吹っ飛ばされた鏡夜は、先ほどまで桃音がいた小屋、その奥の壁に強かに全身をうちつける。
 
(いった!? いや、痛い!? え!? いや、思ったよりかは痛くないが、痛いことは痛くて。夢が痛い? 痛い夢?)
 
 鏡夜は地面に手をついて着地する。脳内は大混乱だった。
 
 なぜ、夢なのに痛みが――いや、小さな小さな、痛いようなそんな痛みではあったが。たしかに、それはあった。それはつまり。
 
 
 
(え? もしかして、夢じゃ、ねぇの?)
 
 バタン、と小屋の扉が閉じた。鏡夜は呆然としたまま奥の壁に身を預けるように座り込んだ。
 
 
 
 
 
 小屋の中は非常に質素なもので、椅子とテーブルと本棚とラップトップPC、あとは簡素なキッチンがあるばかりだった。生活臭はない。休憩所のようなものだという印象を鏡夜は受けた。……外から桃音以外の足音が聞こえる。
 
「桃姐さん、終わりました」
 
 
 
 その声で鏡夜は気づく。あれは洞窟で聞いた、騎士のような冒険者の声だ。集中を広く飛ばしてみれば、たしかにあの二人組の気配がする。 色々なものに気を囚われすぎて気づくことさえできなかったようだ。
 
 もう一人の、軍人風の冒険者は 報告するように告げる。
 
「これが採取する素材っす。……はい。今日はこれで打ち止めなんで、この森にはもう誰も来ないっす」
 
「そんじゃ、また世話になるかもしれないんで。ありがとうございました」
 
 
 
 二人の冒険者はそう口々に桃音に伝えると、森の外へと立ち去って行った。
 
 
 
 鏡夜は彼らの経緯に耳を傾けながら、未だにひどく混乱していた。
 
 
 
 彼らはなんだ? 彼女は誰だ? なぜ自分はここにいる? 彼女はなぜ自分を投げたのか。これからどうなるのか。脱げない帽子の……服の意味は?
 
 
 
 
 
 しかし……。
 
 鏡夜は動揺と弱さを、先ほどと同じように飲み込んだ。
 
 
 
 扉が開き、小屋の中に入ってきた不語桃音に、鏡夜は笑顔を向ける。
 
(そう、舐められてはいけない。意地を張って、虚勢を張ろう)
 
「やーやー、どうも。家に連れ込んでくださるなんて。魅力的なお誘いですねっと」
 
(それだけが、今の頼りだ)
 
 そう嘯いて、鏡夜は立ち上がった。
 
 
 「………」
 
 桃音はへらへらと笑う鏡夜を一瞥すると、すたすたとテーブルに近づいて、四つある椅子のうち一つを引いた。そして、キッチンへ向かう。
 
 
 
(……座れ、ってことか? いきなり戦闘にならなくてなによりだが。襲われたらやべぇ気がするし……)
 
 鏡夜は決して背の低くない自分を、腕の力で掴み、背負い投げた桃音の、あの力強さに心の中で身震いする。
 
 鏡夜は恐る恐る椅子に座った。桃音は鏡夜に背を向けてなにやら作業をしている。何をしているのか目を凝らしてみれば、紅茶をいれていた。
 
 ……それ以外の、不審な動きは見られなかった。警戒している様子もない。
 
 
 
 しかし、ここでボケっと座って、彼女に付き合ったところで何が解決できるのだろうか、と鏡夜は思う。彼女は会話できない。発話できないならまだしも、コミュニケーション全般が不可能であるらしい。
 
 
 
 詳しい話を聞くのは絶望的だ。そもそも、こちらの話が通じてるかも――。
 
 
 
(いや、さっきの冒険者たちは普通に口頭で話しかけてたな。聞くことに関しては制限がない感じか?)
 
 
 
 鏡夜がそんなことをつらつら考えていると、桃音は鏡夜の方へ振り返った。手にはトレーを持ち、トレーの上は美しい白磁のポットとティーカップが二つ乗っている……。というかポットやカップのみならず椅子もまた微細な文様が描かれている。高級志向なのだろうか。
 
 彼女は鏡夜の傍まで近寄ってきた。鏡夜は桃音から目を離さないよう凝視し続ける。桃音はテーブルの上にトレーを乗せると、二人分のカップに紅茶を注ぎ、一つを鏡夜の前に置いた。
 
「これは、ご丁寧にどうも~、いやぁ、紅茶はあんまり知らないんですけど……」
 
 
 
 鏡夜はカップに注目した。毒でも入っていたら嫌だ。
 
 
 
 
 
「うん、なかなか美味しいですね。貴女の腕がいいんでしょうか?」
 
 向かい側の椅子に座った桃音は、自分の前に置いた紅茶に手をつけることなく、薄く微笑んで鏡夜を見つめている。
 
「………」
 
 
 
 ……茫洋と、無言なので桃音が何を考えているのかはさっぱりだった。
 
 
 
「おやおや、この程度の賛辞で喜んでくださるなんて……ま、お世辞じゃありませんよ。正当な評価です」
 
 さっぱりなのだが、鏡夜はその微笑みから勝手に桃音が喜んでいると解釈して答えた。
 
 というか一瞬でも黙ると気まずくなって、雰囲気に敗北して痛い沈黙を選んでしまいそうだった。つまり、舐められる。なので無理にでも会話を強制的に続行する。そんな決意を固めつつ鏡夜はカップに入った液体を見下ろした。液体の表面に自分の姿が反射して鏡のように映る。
 
 
 
(……………!?)
 
 
 
 髪が、灰色だった。
 
 目は、赤色だった。
 
 華美なスーツを着た灰髪紅眼の男が、琥珀色の鏡に映っていた。
 
 だが、それはおかしい。……鏡夜は幻視するように回想した。
 
 己の髪は黒髪で、己の瞳は黒目だったはずだ。黒目黒髪の日本人だったはずだ。自分は、こんな、外連味のある洋装の怪人ではなかったはずだった。
 
(……たぶん、目覚めた時から、こうだったな。服に加えて、髪や眼まで変わっていやがると。……身体に何をされたんだ……?)
 
「いやぁ、実はですね、困ったことが起きまして?」
 
 鏡夜は動揺する両目を隠すように帽子を目深に被り、軽快な調子で口を開いた。
 
「さて、どこから話したものか……というか、聞いてくれます?」
 
「………」
 
 不語桃音は、鏡夜から目を一切逸らさず、微動だにせず座ったままだった。
 
 どうやら、聞いてはくれるらしい。
 
「実はですね、私、なんで私がここにいるのかよくわかってないんですよ。気づいたら奥の方に行った洞窟で倒れておりまして」
 
 鏡夜はオーバーなアクションで嘆く。不安に怯える姿を打ち消すように、大げさに。演技臭く。
 
 あくまで舐められないようにする。それが前提だ。
 
「なので、不法侵入ってわけではないんですよ? ホント」
 
「………」
 
(おおう、訝し気な顔してんなぁ……まぁ、そりゃぁ、なぁ)
 
 意味がわからない、というのが正直なところだ。鏡夜自身でさえそうなのだから、彼女にわかるわけもないだろう。
 
 しかし、言葉を止めるわけにはいかない。困惑し、止まってしまえば弱さの露呈だ。 それは決して悪いことではないけれど、意地を張るという面では命取りではある。
 
「いえいえ、心配していただかなくても大丈夫です。いろいろあるとはいえ、五体満足ではありますし……なんとかなるでしょう。結果的にとはいえ、侵入した形となってしまい申し訳ありません」
 
 鏡夜はもうほとんど口から出まかせ、表面上の繋がりだけで言葉を紡ぐ。まだいける。自分の言ってることはギリギリ把握できている。
 
「ところで……ついでと言ってはなんですが、このあたりのことがわかるアテ、あったりしません? いや、お手間だとは思うんですけど。流石に、このままだと五里霧中極まりないっていうか~。ほとほと困っちゃう感じでして」
 
 桃音は数秒ほど何かを考えるように視線を彷徨わせる。彼女はテーブルの上に置いてあったラップトップPCに目を止めると電源を入れて、キーボードを操作し始めた。
 
(なんだ……? コミュニケーション不能なのにパソコン操作はできんのか。わけわかんねぇな……。入力した文章を見せればいいだけなんじゃねぇか?)
 
 そして、カタッ……と最後のキーを入れると、桃音はラップトップPCを回転させた。
 
 画面とキーボードが鏡夜の方へ向く。
 
「えーと、何々……? ……観光サイト? 『日月の契国 塔京 貝那区に存在する絢爛の森は契暦999年8月12日現在』『不語桃音さんという人間の女性によって管理されています』『不語さんは〈疲れない/喋れない〉という呪いを保持しており』『契国最強の個人と目されています』『絢爛の森には自然や神代の痕跡を保護するため、許可を得た冒険者や研究者のみが立ち入り可能となっています』『間違えて侵入しないよう注意してください。不語さんから攻撃される恐れがあります。 ※危険度:大』」
 
 
 
「………」
 
 
 
 桃音は鏡夜が読み上げているのを見つめながら、ようやっと自分の紅茶を飲んでいる。どことなく得意げに見えるのは、困っていた鏡夜を助けられたからだろうか。
 
 対して、当のそれを見せられた鏡夜は、ため息を吐きたい気分でいっぱいだった。
 
 桃音から身体ごと視線を横に向けて、口を開く。
 
 
 
「東京は知っていますが、塔京? ……日月の契国というのは寡聞にして聞いたことがないですね~。あと、契暦? 西暦ではなく? 貝那区ってなんでしょう? ……絢爛の森とはまた大層な……」
 
 嗚呼、とごちて。
 
「なるほど、異世界ですか……いえ、なんとなくそうだとは思ってたんですけどね」
 
 
 
 夢のように荒唐無稽すぎるだけならまだしも、完全に記憶の日本からズレた固有名詞が出てきた時点で鏡夜は疲れ交じりにすっかり納得してしまった。桃音はそんな鏡夜をうかがうように覗き込んで来た。
 
「………」
 
「ああ、いえ、不語さん。教えていただきありがとうございます」
 
 鏡夜はラップトップPCの画面を手のひらで指し示しつつ言った。
 
「しかし……そうですか……別世界ですか……」
 
 愚痴るように確認してから、鏡夜は気づく。
 
 
 
(いかんな、意地を張る余裕がなくなってきてる。ここで折れるのはまずい。何も解決してねぇんだから。しかしマジでどうするか……とりあえず現状の把握を済ませてから、か? 正直な話、全部放り投げて目の前の不語さんに助けてー、なんて言っちまいたいが、流石にそれは、なぁ……)
 
 
 
 今でも鏡夜は警戒を解いていない。騙している可能性、不意打ちをかましてくる可能性はまだある。安心しているフリをしているだけに過ぎないのだ。
 
 鏡夜が鏡夜なりにシビアな黙考をしているとカツカツとテーブルを指でたたく音がした。
 
「ん?」
 
 鏡夜は注意をその音に向ける。桃音は不服そうにテーブルを人差し指で叩いていた。
 
 
 
「……んー。何かにいらついているのはわかるんですがー……ちょっとわかんないですかねぇ」
 
 
 
 鏡夜はわざとらしく首を傾げて視線を不語にまっすぐ向けた。
 
「………」←弱点:【喋れない】【格好良いもの】
 
「んん……?」
 
 
 
 なぜか、弱点が見えた。鏡夜は一度視線を下に向けてから再び桃音へと向けた。
 
 
 
「………」←弱点:【喋れない】【格好良いもの】という文が浮かんで見える。見間違いではないようだ。
 
 
 
 なぜ今まで気づかなかったのか……。本当に、身体に何をされたのだ己は、と鏡夜は自嘲する。
 
 けれど、ひらめくものがあった。もし、これが本当なのならば。これが真実であるのならば。
 
 ……意地を張り続けた甲斐があったかもしれない。
 
「桃音さん」
 
 鏡夜は、柔和な表情で不語桃音の、下の名前を呼んだ。そもそも最初から妙だったのだ。
 
 先ほどの観光サイトの情報が正しかったのならば鏡夜は、彼女の知らぬ、打ち倒すべき侵入者の外敵だったはずだ。 冒険者を偽る賊であったはずなのに、最初は手荒かったとはいえ今は丁重に扱われている。
 
 そもそも、あの背負い投げも、あの冒険者たちから鏡夜を隠し、庇うためだったのではないか……?
 
 で、あるのなら。それはつまり。
 
 
 
 桃音は鏡夜を見返した。
 
 
 
 ……突然下の名前を呼んだから、桃音は驚いているように見える。しかし、それは不快な様子ではなくむしろ喜色を見て取れた。
 
「すこーしばかり協力していただけませんかね? いえいえ、貴女にも得がある話ですよ。なんとですねぇ。私を保護していただくと……私のような同居人が増えるんですよ! そりゃぁ、戸籍とかはありませんけど……きっとほら、楽しかったりしますよ? どうです?」
 
 
 
 不語桃音は……顔を赤くした。
 
 
 
 
 
「わー。ありがとうございます。ものすごーく助かります」
 
 
 
 鏡夜はニコニコとした笑顔を浮かべた。
 
 
 
 反面、内心ではホッとしていた。本当に綱渡りだった。偶然に偶然を重ねた奇縁の糸を渡り切った今に、笑う。未だに無知の闇の中で沈み、目標すら定められない身の上だが。今だけは、自分は恵まれていると笑えた。
 
 
 
 
 あの後、桃音は少しまごついた後、ラップトップPCだけを持って小屋を出た。玄関先で三、四回鏡夜がついてきているか確認するように振り返る桃音。それを見た鏡夜は椅子から立ち上がると、桃音の後ろ姿を追いかけることにした。
 
 ……幾分か歩いたが、周囲は変わらず鬱蒼とした木々で満ちている。この森の広さを先ほど見せてもらった観光サイトで確認しておけばよかったと思ったが後の祭り。
 
 
 
 道中に会話はない。適当に何か話そうかとも思ったが……会話ができない彼女に後ろから話しかけ続けるのも酷だ。なので、沈黙を選ぶ。流石にこの沈黙は舐められることに繋がらないだろう。
 
 さて、鏡夜は自分の腕をじっ、と見つめる。
 
 
 
「……んー」←弱点:【脱衣不能】【装備不可】【アイテム使用不可】【自縄自縛癖】
 
 
 
(なんだこの弱点)
 
 
 
 ……桃音しか前例はないがおそらく、この弱点を見る目は信用していいのだろう。そう、つまり、鏡夜は、この服が脱げない。あとの三つはもう、言ってしまえばどうでもいい。【装備不可】も【アイテム使用不可】も現状些事だし、【自縄自縛癖】に至っては性格だ。
 
 気にしたってしょうがないし、だからこそできることもある。それはいい。
 
 
 
(【服が脱げない】……これは、本当にまずい)
 
 
 
 改めて脳内で確認して、全身からぶわっ、と冷や汗が流れた。言うまでもないことだが……鏡夜は髪色やら目の色やらが変わっても人間である。身体に意識を回してみても、生理的反応は通常通り動いている。
 
 
 
(つまり、その、アレだ………生活的事象において、……うぐっ)
 
 
 
 想像するのも嫌だと拒否反応が起こる。この世界が異世界であると気付いた時よりも絶望は大きいかもしれない。後で要検証だろうが、例え結果がどのようであろうとも。
 
 
 
(……住処は確保できたわけであるし、次の目標は、服を脱ぐ、だな。はははは。すげぇ普通の、ありふれたことだなぁ畜生!)
 
 
 
 その普通さが、今はどうしようもないほど、愛おしい。元の世界に帰るよりも優先度が高いかもしれない。なにせ切実に、リアルに生活に直結しているのだから。
 
 ……今、鏡夜が体験している、この一秒一分一時間一日は全て、あますところなくリアルと言えばリアルなのだが、それはそれ。
 
 
 
 鏡夜が脳内で大恐慌を起こしている内に、目的地にたどり着く。
 
 そこにあったのは恐ろしい程の大木。幹は明らかに二十メートル以上。高さは、百メートルほどだろうか。そしてその中腹あたりに、〈秘密基地〉があった。
 
 しかしその秘密基地……ウッドハウスもまた、大きかった。明らかに側面の長さが十メートル以上ある……雑な計算で百平方メートル以上の広さだ。平屋でこそあるが、完全に四、五人程度の家族で住める、バリバリの一軒家レベルの建築である。
 
 鏡夜は服が脱げない恐怖から無理やり気を落ち着けると、おおー、とそのウッドハウスを見上げた。
 
 そして、前にいる桃音の背に目を向ける。
 
「良いお家ですねー。あー、ところで入口はどちらです?」
 
 
 
 桃音は大木中腹にあるウッドハウスに狙いをつけるように腕を一度振るうと、跳躍した。
 
 冗談みたいに飛び上がった彼女は、スタッ、とウッドハウスを乗せている大きな板、扉前の部分に着地した。
 
 いろいろな意味で育ちが良い地味で陰気な文学女性が驚異的な身体能力を見せるそのシュールさに、鏡夜はしばらく固まった。
 
 
 
 そこから桃音は鏡夜を見下ろしてくる。期待しているような表情。
 
「え? 跳べと?」
 
「……」
 
 茫洋とした彼女の視線が高所から降り注ぐ。
 
 
 
(えー、これがこの世界の人類のデフォルト……だったら流石に笑えねぇぞ、おい)
 
 とは思ったが、物は試しと跳んでみることにした。もしかしたらこの異世界の重力がなんやかんやで軽くてなんやかんやいけるかもしれない。
 
 
 
「あーらよっと」
 
 跳べた。意味不明なまでに跳べた。むしろ跳びすぎなくらいだった。大木の頂点にあと少しで届きそうなほど、周りの普通の木々を超えるくらいには跳んでしまった。鏡夜は半ば、やぶれかぶれだったのだが……。
 
 広い広い森の外側まで鏡夜は見ることができた。森の外は、都会だった。しかも妙に発展している。かつて鏡夜が住んでいた、現代日本よりも。
 
 
 
 そして巨大な、あまりにも巨大な塔。天辺が見えず、無限に空へ突き抜けているような塔が、鏡夜の視界に厳かに佇んでいる。
 
 
 
「はへ……? おっとっと」
 
 それもまた気になったが、空中でバランスを崩しかけたので姿勢を正す。どうせ外れないが、帽子を右手でおさえつつ、どうにかこうにか無様になることなく、鏡夜は桃音の隣に着地することに成功した。
 
「………」
 
 鏡夜は桃音に、良くできましたと言わんばかりに微笑まれてしまった。
 
「あはは~……」
 
 鏡夜は桃音に愛想笑いをした。今日何度目かの、自分の身体にいったい何をされたんだという疑問が胸中で吹き荒れていたが、なんかもう慣れてきてしまったのか、そのまま心の中でスルーすることに鏡夜は成功した。
 
 桃音はもう一度だけ鏡夜へぼんやりとした笑みを向けると、懐から取り出した鍵でドアのカギを開けて、中に入った。鏡夜もそのあとへついていく。
 
 
 
 玄関からリビングに入ると、その内装もまた秘密基地要素が強いものだった。だがしかし、それは機械的というより有機的、統一された木の香りがする様式だった。たしかに、あの待合室のような小屋に比べればいくらかは生活している雰囲気がある。
 
 ざっとリビングを見渡してみる。真っ白なクロスがついたテーブルに小屋でも見た細工が施された椅子。別のところには大きなソファとその横に小机、正面に薄型テレビが配置されている。さらに、平屋であるにもかかわらず天井付近に書斎らしきスペースと、そこへの梯子があった。あのスペース、たしかロフトと言うのではなかったと鏡夜が思い出していると、桃音はリビング奥の扉を開けた。
 
 そこは小さな寝室だった。天井からデフォルメされた炎の形をしたライトが垂れさがっており、書き物机とベッドが配置されている。
 
 桃音は鏡夜の袖を掴んでグイグイと引っ張った。そして、鏡夜を部屋の中央に立たせると満足そうに両手を腰に当てた。
 
 
 
 ここを使えということらしい……。いや、鏡夜の勝手な推測なのだが、間違いではないだろう。
 
 
 
 続いて、桃音にキッチンやら風呂場やらトイレやらの案内を一通りされた。
 
 たった一つ、鏡夜を入れてくれない部屋があったが、おそらく桃音自身のプレイべートルームだろう。
 
 ただ、入れてくれなかっただけで、入れないぞ! みたいな脅しをかける様子はなかった。
 
 むしろ微笑みが少しだけ強くなったような気がしたが……鏡夜はそれを気にかける余裕がなくなり始めていた。
 
 
 
 リビングに戻ってきた瞬間に、鏡夜は右手のひらを上に向けつつ、とぼけたように言った。
 
 
 
「あー、桃音さん、私、ちょっとお手洗い行ってきてもいいですか? 失礼しますね」
 
 
 
 そして、鏡夜は返答を待つことなく――そもそも桃音は返事ができないのだが――トイレに直行した。力任せにドアを開け閉めしそうな衝動を抑え、静かに上品に中に入る。
 
 鏡夜は、トイレの中でかつてない迫真の表情をし、シリアスに自分のベルトに手をかけた。
 
「頼む……神様……!! 慈悲をくれ……!!」
 
 
 
 しばらくして。
 
 
 
「ハハハハハハハッハァッ!!! お待たせしましたね! 桃音さん!!!」
 
 
 
 かつてない上機嫌さで鏡夜は、半ばスキップしながらリビングに戻った。
 
 微に入り細を穿つ描写は決してしないが……それでも言うなれば。ベルトを最大限ゆるめるのとチャックをゆるめるのはセーフだったとだけ言っておこう。あと下着も含め足首まではオーケーだった。それ以上はテコでも動かなかったが。
 
 超弩級の懸念事項が消えて最高の解放感でハイになりながら鏡夜はリビングのソファに座った。
 
「………?」
 
 桃音は鏡夜のハイテンションぶりに疑問符を浮かべた。が、まぁいいかと言わんばかりに視線をずらすと、テーブルの上に置いてあったリモコンでテレビの電源を入れた。
 
 薄型のテレビ画面では、【ついに決着の時】【塔の開幕式までもうすぐ!!】とカラフルなテロップが踊っており、アナウンサーの中年人間男性と、コメンテーターの老年猫耳男性が会話をしていた。ニュース番組だろう、と鏡夜はあたりをつける。
 
「ふむ……?」
 
 
 
(なんだあれ? コスプレ?)
 
 鏡夜は当然の疑問を猫耳男性に思いつつ、これは、渡りに船だと感じる。……明日になれば手を尽くしてこの世界のことを調べるつもりだが、今のうちにこうやって情報を仕入れておくのも悪くはないだろう。塔、というキーワードも気になるし。鏡夜は窓から見える巨大な塔と、その底部分へ纏わりつくように建てられたドームを見ながらそう思った。
 
 桃音はしばらく立ったまま数分ほどテレビを見ていたが、飽きたのか、そのままリビングからキッチンへと引っ込んだ。
 
 
 
 桃音が料理を作る音がかすかに聞こえてくる。夕飯を作っているらしい。
 
 これは素直に助かったと鏡夜は思った。なにせ、腹はどうやったって減るのだから。新陳代謝という奴である。
 
 
 
 しばらくニュース番組を見ているうちに、だいたいの輪郭は掴めてきた。
 
 
 
 この世界には人類、人外がいる。人類と人外は千年前まで争っていた。
 
 しかし当時の勇者と魔王が停戦の契約を結び、〈決着〉を塔に封じた。
 
 そして千年後、塔は開かれ、人類と人外は〈決着〉を手に入れるための競争をする。先に手に入れた方が勝者であり、これで、全てが決着し、清算される。これは人にとっても人外にとっても悲願である――。と。
 
 
 
 ただこれだけの筋が、それはそれはお涙頂戴の、あるいは笑い話のように、娯楽のように消費されていた。だからと言って侮ってはいけない。貴重な情報もあった。
 
 
 
 番組内で紹介されたソレは何十本の紐束が、なんとはなしに人の形にまとまったような形をしていた。
 
 これまでの千年間。戦争が起こらなかった理由。戦争が、発生する前に亡くなっていた理由。
 
 
 
 それこそが和名、天照使。英名ウォーカウンター。
 
 戦争の端緒に突如現れて、それでもなお戦争をやめないのならば、戦争を端から端まで一切合切に射出した光のカーテンで消滅させる死と平和の使者。 その判断基準は一切不明。ただ戦争に現れる死の天使。
 
 
 
 ……それもそれで異世界チックで気になったが、重要なのはその先の情報。
 
 
 
 この発展の進んだ時代でもなお、対処できない別次元の存在である天照使は、塔に封じられた〈決着〉のほんの一部分にすぎないと。その実態は、世界を塗り替える力だと。
 
 そして〈決着〉を手に入れた者はその力でどんな願いもかなえられると、それがすなわち決着だと。そんな話題を、ことさらに大げさに皺の深い猫耳コメンテーターは言っていた。
 
 
 
 本当に代表の人たちは信用できるんですかね~~と楽しそうにアナウンサーが囃し立てるのを見ながら、鏡夜は呟いた。
 
 
 
「なんでも、叶う、ですか……」
 
(それは、つまり、元の世界に帰ることも? それは、例えば、服を脱ぐことも?)
 
 
 
 なんだか、千年の歴史や悲願があるらしい。契暦999年から1000年に移るこの日は究極的な日だとか。……が、知ったことではない。それは鏡夜にとって圧倒的にリアルな束縛に優先するものではない。
 
 ただ、服を脱ぎたいのだ、と鏡夜は痛切に願う。
 
「〈決着〉ねぇ……」
 それはとても魅力的だと、鏡夜は思った。
 
 
 桃音がトレーに乗せて夕食をテーブルに運んできた。ステーキだった。じゅうじゅうと鉄板の上で焼けている。
 
「ああ、手伝います?」
 
 鏡夜はソファに座ったまま声をかけたが、桃音は鏡夜に視線を向けることもしなかった。ともすれば無視に近い無礼な態度だが、鏡夜はすぐにピンとくる。
 
 これは必要ない、という意味だなと。なのでソファに座ったまま、桃音がテーブルへ夕食を運ぶ様子を見る。
 
 食器はいろいろ種類があって、来客用と彼女自身用の区別が鏡夜にはつかない。なるほど、これは余計な手出しは不要だろう。
 
 表面上は無礼だが、その実は気を使ってくれている。せいぜい数時間ほどの付き合いだが、鏡夜はそんな彼女の性質がわかった。
 
 これは親しまれるな……そういえばあの冒険者も〈桃姐さん〉と呼んでいた、と思い出しているうちに桃音は夕食を並べ終わった。
 
 桃音は一つ椅子を引っ張ると、それを放置して、その向かい側に座った。
 
 
 
「ああ、まぁ、そこに座れと」
 
 
 
 あの小屋でも同じことをしていた。コミュニケーション不可能者である彼女にとって最大限の合図だ。謹んでお受けしよう。
 
 鏡夜はソファから立ち上がってその椅子へ座った。
 
 
 
 夕食は和やか……? に進んだ。相互会話はできないので、一方的に鏡夜が話しかけている形だ。もともと鏡夜はかなり饒舌な性格である。思考も割合深く、返る言葉がなくてもそう簡単に話は尽きない。それに……反応がないわけではなかった。
 
 地味で陰気な調子は崩れないが、桃音は茫洋でありつつも多彩な表情を示す。
 
 それで何か確固とした意思表示が伝わることはないが、話す甲斐はあった。壁に話しているわけではなく、一個の人間に話しているわけであるし。ちなみに話題はとても当たり障りのないことだ。
 
 
 
 元の世界では学生だったとか。好きな飲み物はコーヒーだとか。
 
 いや、貴女に小屋で貰った紅茶も最高でしたけどね、とフォローしたり。
 
 そんなことを鏡夜は情感たっぷりに話した。
 
 
 
 あっという間に夕食のステーキを食べ終わった鏡夜と桃音は二人で食器を片付けた。……夜もすっかり更けてきている。
 
 
 
 そしてそのあと、鏡夜はバスルームにいた。お風呂が沸きました、と備え付けの機械パネルに告げられてから、じーーーっと桃音に見つめられて、ああ、先にお風呂に入ってほしいんですね、と気づくまで十分ほどかかったが……正直な話、気づきたくなかったのが本音だった。というかいつのまに沸かしたのだろう……。
 
 
 
 鏡夜は自分が足を伸ばして、のんびりと入れるだろう大きなユニットバスを完全灰銀スーツ装備で途方に暮れて見下ろす。
 
 頭に嵌っている帽子を引っ張ってみた。脱げない。上着やシャツのボタンは外せるが腕はまったく脱げない。ワイシャツの裾を掴んで、子供のようにバサバサしてみるがどうしようもなかった。
 
 
 
「風呂、入りてぇ……」
 
 
 
 灰原鏡夜。毎日必ず夜風呂に入り、朝シャワーを浴びる男である。というか、靴も脱げないから土足で風呂場に入ってしまっていた。なにをしているんだ、と鏡夜も思うが、それほどまでに風呂が恋しかったのだ。名残惜しそうに、しっとりと濡れているユニットバスの縁を指でなぞる。
 
 ……手袋についた水分が一瞬でなくなった。
 
「……ん?」
 
 右手をぐーぱーしたあと、鏡夜は思い切ってその手をユニットバスの中に突っこんでみた。
 
 右手を持ち上げる。ざぁーっ、と水滴が手袋から垂れたその瞬間。
 
 まるでドライヤーをかけたように……さらに早送りするように、じっとり濡れた手袋は乾き、元に戻る。
 
 
 
「………………」
 
 
 
 そういえば、洞窟で、自分は寝転がっていたはずだ。背負い投げで吹っ飛ばされもしたはずだ。しかし、服には、汚れ一つない。どうやらこの服は、自動クリーニング機能があるらしい。
 
 ……鏡夜は、思いついてしまった。いや、流石にそれは……だめだろう。倫理的に、この後には家主である桃音が入るのだ。倫理を捨ててしまうのか、灰原鏡夜。
 
 
 
 
 
「“あ~~~~~~さいっあくっ……!」
 
 やってしまった。鏡夜は気を遣うことを放棄して、服を着たまま風呂に入った。温かい湯船が身体の筋肉を緩め、神経を癒す――。が、絶望的なまでの、服のべちょべちょとした触感が全身に密着して気分は最悪だった。
 
 故に、〈あ~~~(リラックス)さいあく(ストレス)〉なんて妙な言葉を漏らしてしまう。鏡夜の視線の先では、水面から灰色の影が揺らめいていた。着衣水泳ならぬ着衣入浴である。
 
「元の世界に帰るとかどうでもいいわ~~~。服が脱げないと死ぬぜこれ。ストレスで死ぬ」
 
 腕を湯船から持ち上げる。相も変わらず、濡れた服は急速に乾く。まるで魔法のように。元に戻る。その荒唐無稽さに、ついつい愚痴を垂らす。ずっと意地を張り通しだったせいか、声も不機嫌そのものだ。
 
 
 
「これがカッコいいねぇ……? 趣味が悪いっつーの。おっと、おっと、桃音さんの趣味が悪いってわけじゃなくな。服が脱げない、この呪縛の趣味が悪い」
 
 
 
 シャンプーやボディーソープもあったが、使えなかった。髪につけて泡立てようとしても泡立たない。首元にもつけてみたが、服に染み込んだお湯のように、嘘のようにきれいさっぱりなくなってしまった。
 
 もう一言、“あ~~~~と、おっさん臭い声を上げると鏡夜は風呂から出た。
 
 鏡夜は一呼吸した後、流石に罪悪感があったので湯船を見てみたのだが……ゴミ一つ毛一つ浮いてなかった。目を凝らしてみるが、ない。……異常なまでに綺麗だった。自分が入る前とまったく同じに見える。ならいいや、と鏡夜は見切りをつけた。汚していないのだからセーフだとは、冗談でも思わないが、汚しまくった湯船にするよりかはマシだろう。
 
 
 
 脱衣所の鏡で自分を見た頃には服が綺麗さっぱり乾いて元のようになっていた。洗面台横の籠に準備されていた、これまたお客様用だろう男女兼用パジャマが悲し気に己を見ている気がして鏡夜は空笑いをする。
 
 
 
 洗面台正面の鏡に映るのは鏡夜だ。ただし、昨日とは姿が違うが。
 
 灰色の髪、紅い目。帽子も手袋もポーラータイもベストもジャケットもズボンも明度が違うとはいえ灰色一色。
 
 灰原だから灰色とでも言うつもりなのだろうか――? そしてその男は不機嫌そうな顔で、口をへの字に曲げ、鏡の中から鏡夜自身を睨みつけていた。
 
「ああ、駄目だぜ、こんな面じゃぁ舐められる。弱い犬ほどよく吠える。脆い奴ほどしかめっつらってなぁ」
 
 だが、その己の弱さも脆さも……鏡夜は決して嫌いではなかったのに。
 
「……はん」
 
 鏡夜は昨日までの常人だった己に思いを馳せながら、右手で鏡をなぞろうとした。手が鏡の中に入った。
 
「………ああ?」
 
 手先から肘まですっぽりと鏡に入る。驚いて、バっと腕を鏡から抜き取った。顔の高さまで避難させた手のひら含め、右腕にはなんの異常もなかった。
 
「……?」
 
 怖々と、もう一度右手を鏡に近づける。鏡の表面に触れようと思えば、思った通り触ることができた。通り抜けようと念じれば、これまた、ぬっと腕が鏡の中に入り込む。
 
 
 
「……よーし、わかった! 髪と目と服だけじゃねぇな!! まだ、なんかされてるわこれ!!」
 
 
 
 鏡夜は手を抜き取ってやけっぱちに小さく叫ぶ。苦悩に浸る暇すらない。不明な能力と不明な転移と不明な拘束と不明な欠点でてんてこまいだ。
 
 風呂に入ったのだからリラックスさせてほしかった。この現象も要検証だ、と鏡夜は脳内で吐き捨てる。
 
 
 
 ただ今日は疲れたので検証は明日に回すことにした。鏡夜はリビングに戻りソファで紙の本を読んでいた桃音に声をかけた。本の表紙には、『枕草子』と書いてある。
 
「いやぁ、いいお湯でしたよ。桃音さん」
 
 桃音は本から顔を上げ鏡夜を見る。鏡夜の頭の先からつま先までじっくりと視線を動かす。鏡夜が勝手に推測するに……鏡夜の服装がまったく変わっていない、つまり着替えていないのが気になるらしい。着替えを用意した当人としては、当然だろう。
 
 
 
「あー、実はですね桃音さん、私、諸事情で服が脱げないんですよ。一緒にするのもなにかと思いますが、貴女が喋れないようにね。……なので、服を着たまま入りました!」
 
 
 
 ……無表情、の桃音。が、鏡夜ここで動揺しない。飄々と続ける。
 
 
 
「ああ、安心してください。お湯はまーったく汚してないんで。あはは、もしかしたら私、老廃物を出さないスーパー生命体なのかもしれませんね」
 
 
 
 もし他に言葉を紡げる者がいるなら、いやお前さっきトイレ行ってるだろ、と突っ込みが入るかもしれなかったが、残念ながらその突っこみを入れる人はこの場にいなかった。
 
 桃音は『枕草子』を閉じると横に置いてある小机に本を置いた。そして鏡夜の隣を通って脱衣所へと向かう。桃音の感情が殊更見えず、鏡夜は彼女が何を考えているかがわからなかった。鏡夜の胸中は着衣入浴の罪悪感やら不安感やらで荒れ狂っているが、はぁ、とため息を吐いてそれを脇に置いておく。
 
 苦悩したところで、それはどうしようもないことだ。
 
 
 
 鏡夜はソファに座ると、肘をついてテレビに注目した。あと少しで開幕式が始まる。テレビ画面の左下部分に表示されたカウントタイマーが、刻一刻と00:00へと向かっている。
 
 お風呂のことに関しては、やってしまったことは変えられないし、明日からもやるつもりだった。そしてまったく同じ状況になったらまた同じ行為を鏡夜は選択するだろう。
 
 なので、後悔なんてする余地もなかった。ただ服を脱ぎたいと本日何十回目かの願望を抱くだけだ。
 
 
 〈契歴999年 12月31日 23:58〉
 
 
 
 カウントタイマーがあと二分まで迫り、ついに【開幕式】が開かれる……のを鏡夜はソファに座ってテレビ中継で見ていた。隣には桃音が座っている。彼女も入浴済みであるはずなのだが、その衣服は出会った時と同じゆったりとした紺色な服のままだった。寝間着とかどうするんだ、と鏡夜は頭の片隅で思うが、女性には色々あるのだろう、と自己完結する。それよりも決着の日、開幕式だ。
 
 
 
(……あと一か月、いや、一日前でもいい。その時に、この世界に来ていたのなら、〈決着〉を手に入れるために何かをどうにかできただろうか)
 
 
 
 なんて、益体もないことを考えながらテレビを見る。
 
 舞台の上では和装仕立ての洋装に、マントと軍服をかぶせた妙に関心が引き込まれる男が演説をしている。先ほど跳んだ時に見た巨大な塔で、こんなイベントが起こっていることが不思議に思えた。
 
 
 
 ――――……キィ……ィィィィン……―――
 
 
 
 窓の外から異音が聞こえた。飛行機が飛び立つような飛んでるような、落ちるような高音。鏡夜と桃音は、音の方向、窓の外へ目を向ける。
 
「なんですか、あれ……」
 
 巨大な大砲を一門、上部に備え付けたプロペラ飛行機が遥か彼方の空から急降下していた。
 
 鏡夜たちからかなり距離が離れているため、正確な全長はわからない。ただわかるのは大砲の大きさが飛行機の三倍程度ある。
 
 
 
「……ありえないでしょ、アレ」
 
 
 
 航空工学に詳しくない鏡夜ですらわかる。アレはありえない。まず大砲の重さで飛行機が飛ばない。飛んだとしても落ちる。落ちなかったとしても重心の暴力により上空で爆散する。あれはそういうものだ。
 
 だが、斜め四十五度以上の降下軌道で、プロペラ飛行機は、狙った場所に急降下している。ドォン、という発射音が聞こえた。大砲が撃たれた音だ。空気の震えが鏡夜たちのいるツリーハウスまで伝わって、揺れた。
 
 
 
 そして大砲を発射した瞬間、大砲が爆発して連鎖的に飛行機も爆発した。
 
 だが破片は散らない。完全に焼失して、残ったのは落ちる砲弾だけだ。
 
 
 
 落ちる落ちる。塔の底、ドームの天井へ風を切る轟音を響かせながら落ちていく――着弾の音はテレビから聞こえた。鏡夜は振り返ってテレビ中継を見た。
 
 飛び散る破片、テレビクルーの叫びや観客の絶叫。弾は綺麗に舞台に着弾し観客席には被害が行っていない。シャンデリアさえ跡形もなく爆散して、もはやガラスの粉となって降り注ぐのみ。
 
 砲弾は地面をモグラのように進み、塔の入り口を突っ切って侵入した。
 
 あの、犯行声明を残して。
 
 
 
 if you want to change the world, exceed me! Q-z
 
≪世界を変えたきゃ、私を超えろ! ――Q-z≫
 
 
 
「……………………………」
 
 思考停止。鏡夜はぽかんとした顔でテレビと外から見える巨大な塔を見比べる。遠くでは相変わらず狂った縮尺の塔と相対的に小さいドームが煌々とライトで照らされている。ドーム天井に空いた大きな穴が、ライトの陰影のせいか、暗闇の穴のように見えた。
 
 いつのまにか隣の桃音は鏡夜の手を握っていた。不安だから鏡夜に縋ったのか、それとも昼と同じように鏡夜を庇うために掴んだのか。鏡夜にはわからなかった。
 
 
 
「………あー、桃音さん?」
 
 
 
 鏡夜はおずおずと声をかける。対して桃音はなぜか、かちんこちんに固まっていた。
 
「あれ?」
 
「……」←弱点:【喋れない】【格好良いもの】【状態異常:麻痺】
 
「へ? えーと、桃音さん?」
 
(弱点が増えてる……?)
 
 
 
 鏡夜は桃音の意識を確かめるために、もう片方の手で桃音の肩を叩く。
 
「……」←弱点:【喋れない】【格好良いもの】【状態異常:麻痺】【状態異常:混乱】
 
 弱点が増え、桃音は静止したまま、さらに目だけをぐるぐると回すようになった。
 
「………」
 
 鏡夜は左手袋を紅い両目で凝視した。桃音に掴まれた右手を彼女の手から取り外し、しばらく待つ。桃音の麻痺が解け、ぐるぐるしている目が正気に戻ってから、鏡夜は口を開いた。
 
 
 
 横を向いて、左手のひらを困ったように上に向ける。
 
「あー、すいません、桃音さん。どうも私の服は、じゃじゃ馬なようでして。手で触れると状態異常を起こしてしまうんですよ。………ええ、これではいけないと思っていまして。私は、この服を脱げないという呪いを解きたいのです。………やはり、私はついている。あの〈Q-z〉は私にとっては福音です」
 
 
 
 呪いだ。これはもはや呪いだ。鏡夜は決壊するように口を開く。もう我慢できない。人に触れることすらできないだと? こんな美人に触れることすらできないだと?
 
 
 
「………」←弱点:【喋れない】【格好良いもの】
 
 
 
 桃音は困ったような、それでいて期待するような妙な表情を浮かべて鏡夜の話に耳を傾けている。
 
 
 
「桃音さん」
 
「………?」
 
「これはただ聞いてほしいだけで、貴女に何を望むわけでもないのですが―――私は私の呪いを解くために〈決着〉が欲しいんです。いえ、欲しいじゃありませんね。手に入れます。絶対に」
 
 桃音の呪いとは違うのかもしれないが、鏡夜にとってこの服は間違いなく、解くべき呪いの装備なのだ。
 
「………」
 
 桃音はテレビへ顔を向けた。
 
 そこには、爆散したステージと混乱が落ち着いてきた観客席。逆にヒートアップしているスタジオのアナウンサーと解説者の声が中継されていた。これを見ても、貴方はまだそんなことを言うのか、と鏡夜は言われた気がした。鏡夜もまたテレビに目を向けながら、笑う。
 
「やだなー? そんなもので、気おくれなんてするわけないじゃないですか」
 
 嘘だ。あれはうすぼんやりとしか知らない千年の歴史よりもなお直接的な暴力と意志だ。気おくれも怯えもある。が、この呪いを解きたいという願いがあまりに大きすぎた。本来、時間という壁で手に入らなかった〈決着〉が手に入るかもしれないという好機。鏡夜はこのチャンスを逃すことは、できなかった。
 
 
 
「私はやりますよ。……ま、〈決着〉以外にこの呪いを解く方法があるのなら、それに越したことはありませんがね」
 
 
 
 ここまで宣言しておいて、他に希望を託してしまうのが自分の甘さだろうか、と鏡夜は思う。ただ、目の前には〈喋れない〉という呪いを抱えた女性がいて、それが治ってない。
 
 ならば〈決着〉以外の手段は、割と絶望的だという予測がついてしまっていた。
 
 
 
「さて、ではそろそろ……寝させていただきますね」
 
 テレビでは阿鼻叫喚が中継され、外ではサイレンすらも聞こえてくる。その音を耳に入れながら、鏡夜は微笑む。
 
「私、明日から大変ですので。やることが一杯なんです」
 
 まるで明日遠足に行くために早めに寝るといった風情の鏡夜を、桃音は真っ直ぐな、輝いた目で見ていた。
 
 
 
 これが彼のプロローグ。世紀の決着。歴史に足を踏み込む、異邦人にして部外者。呪われた魔人。
 
 
 
 灰原鏡夜の物語だ。

このブログの人気の投稿

キルボーイとスチュアート

決着の決塔 【フィナーレ】

決着の決塔 【カットイン】