固ゆで卵と変な奴ら ミクロコスモス・スクランブル! 【変能どもの馬鹿騒ぎ】

 ところ変わって最上階のスウィートルーム。十階にある豪華な一室のドア前で聡が苦悩していた。頭を両手で抱えて身体を捩じり、彼は弱音を吐きだす。


「あー、いやだ。出たくねぇ、怖ぇ」


 なんでも願いが叶う魔法が手に入るとは言え、今夜は異常な夜だ。出歩かずに引きこもっていたい。

 だが感情的な問題を抜きすれば、外出するしかないのだ。オールドローズを傍に控えさせて、自らの足で歩き回った方が絶対に良い。聡はすでに結論を出している。でも、しかし。恐ろしい。

 オールドローズは思考を空転させる仮初の主人にニヤつきながら言う。


「ここにいるよりは私と共にいた方がいい。お前の判断は正しいぞ、聡」


  人形 ミクロコスモスを所持しているのはオールドローズだ。共鳴によって位置がバレ、奪い合いをするのはオールドローズだ。であれば無手の聡はどこかの部屋に隠れていれば安全だ―――なんてそんなことはない。

 聡は 人形 ミクロコスモスの共鳴ルールをオールドローズから聞いて即座に理解した。このゲームには 脱落 ・・がないのだ。 人形 ミクロコスモスを持っていなくても、銅像化現象から逃れれば変わらずホテルの中に滞在することができる。つまり、 人形 ミクロコスモスのパーツを持っていなくても、所持者からパーツを奪えるのだ。

 奪われないためには、勝つためには。安定をとるなら、パーツを奪った相手含め人間全員を 排除 ・・した方がいい。

 参加者の中に殺人を厭わぬ者が一人いるだけで、聡はオールドローズのいるいない関係なく、死ぬ可能性がある。では聡はホテルの外に出つつ、オールドローズにホテルの中を探索させるのは? 話にならない。それは吸血鬼との契約に違反する。“お前の暇を潰してやる”。舞台から降りることはチャンスを捨てるのと同義だ。せっかく無敵の赤い夜が味方になっているのに、敵に回してどうするというのだ。

 だから、オールドローズの傍にずっといた方が合理的だ。その通り。


「そんなことわかってるんだよ!」


 ヒステリックじみた叫びだ。だがこれでもマシになっている。オールドローズがとにかく聡を宥めているため、彼の恐怖はどんどん小さくなっている。卑屈な性格の聡はおだてられるのに弱いのだ。判断が正しいよ~とか肯定されると気分が高揚してしまう。

 オールドローズの八百年で培った人間観察眼からみれば、彼は本当にわかりやすい。吸血鬼は老獪に、聡をくすぐる甘い言葉を導き出す。


「くくっ。そうだとも。お前はわかっている。頼もしいね。そんな奴が傍にいてくれると助かるぞ、ん?」


 肯定する。肯定する。そして行動する理由を増やす。増えた理由は聡の背中を押し、悩む時間を激減させる。おだてあげていい気分にさせる。つまるところ、ヨイショする。

 調子に乗った聡は恐怖をある程度呑み込むように、息を大きく吸い込んで、吐いた。


「はぁー! わかった! 行くぞ! 最強の吸血鬼がいるんだ! 勝利は確定! ふぅ!」


 震える声で聡はドアを開けて、外の廊下へ出た。怯え竦み、心が歪んだ人間が精一杯なす一歩である。化け物に後押しされてのことだが、これも勇気には違いない。


「……ふふっ」


 オールドローズは誰の耳にも届かない小声で、まるで麗しい少女のように笑うと、聡の後を追った。

 二人はエレベーターに乗って一階まで降りていく。

 
 
 

 一方そのころ、式神に遭遇し絶体絶命だった着ぐるみの彦星くんは這う這うの体で暗闇の中を移動していた。

 あの時、フロントで行き当たった執事に罵声を浴びせられ、目の前が真っ白になったと思ったら腹部へ本気の蹴りを叩きこまれるというえげつないコンボを喰らった時。一瞬して敗北した彦星くんは身動きが取れず絶望していた。あっけなく 人形 ミクロコスモスのパーツを奪われる寸前までいっていたのだからさもありなん。

 だが、七夕の星の巡りは彼を見捨ててはいなかったらしい。突然の第三者たちに式神の意識が逸れた瞬間、彦星くんは自身の使、脱兎の勢いで逃げることに成功した。

 式神が彦星くんを間髪入れずに打ちのめしたせいで、変能を理解する機会がなかったことと、フェリティシアと賢一がたまたまフロントに来た、この二つの幸運が彼を救ったのだ。

 彦星くんは暗闇の中で考える。


(う、うゆっ……この催し、 隠密大作戦 ・・・・・のボクと相性が悪すぎるよ……! パーツ持ってたら互いの位置がわかるってひどくない? どっかに隠しても、隠し場所がバレて奪われるだけだから……ずっと持ってないといけないし……うっ、お腹痛い……)

 

 受けたダメージが鈍痛として身体に響く。あの執事のヤバさはとんでもなかった。

 オールドローズとは別次元で怪物であり、悪魔じみていた。正直な話、もう二度と会いたくはない。どこかで野垂れ死にしてくれないだろうか、と彦星くんは本気で考える。

 彦星くんが腹部へ受けたダメージは甚大だった。身を休めることのできる場所を探したい、と彦星くんは暗闇を動き回る。すると彦星くんの耳にある声が聞こえてきた。


「うえーん、うえーん」


 悲痛な少女の泣き声だった。


(うえっ!? 泣いてる女の子の声? 敵? それとも不幸なボクを救う可愛すぎる、めそめそ妖精たん!? できば後者希望ぉ!)


 可愛すぎるめそめそ妖精たんってなんだ。意味不明な妄言を脳内に垂れ流しつつ、彦星くんは暗闇を移動する。泣き声が聞こえた場所は、ホテル一階の女子トイレだった。

 個室の一つから少女のすすり泣きが聞こえてくる。 人形 ミクロコスモスの共鳴は起こらない。敵、というわけではないらしい。恐る恐る近づいて泣き声に耳を傾ける。じっくり聞いたが、この声は……聞き覚えがある。


(ふひっ! うひひっ! 泣いてるあの子! 知り合いのあの子! この場はジゴク! だから緊急措置! 緊急避難が適用される気がしないでもない! ラッキー! 女子トイレとか初めて入るよん!)


 彦星くんは――小さな漆黒のネズミ科の生き物に化けてホテルのダクトをつたって移動していた彼は――管路の隙間から女子トイレへ降り立った。

 小型齧歯類の姿で大きく女子トイレの空気で深呼吸すると、その 変能 ・・は姿を変える。

 瞬きほどの時間で、再び着ぐるみの彦星くんに戻った彼は、個室に閉じこもった少女へ声を掛けた。

 女子トイレへはじめて侵入した感銘などよりも、悲しむ少女を助ける方が重要である。


「ミーちゃんは元気?」


 彦星くんの呼びかけに対する反応は劇的だった。少女は個室の扉を勢い良く開ける。


「うっ、うっ! ひ、彦星くん?」


 一人の少女が飛び出して、彦星くんに抱き着いた。ホテル中の人間が銅像と化す前に、彦星くんが 人形 ミーちゃんを拾ってあげた少女だった。


「ぽう! 役得!」


 少女に抱き着かれ奇声を発し、明らかに危険な台詞を呟いている彦星くんであるが、警察関係者は皆あっぱらぱーになってパーティ会場に転がっている。故に彼が捕まることはない。残念なことに。

 変た……変能の鑑みたいな彦星くんに、少女は涙声で語る。


「あの、おトイレから出たら、外でママも、パパも、石になっちゃって! 怖くて……私……怖くて……」


 ダクトを移動していた彦星くんは預かり知らないことだが、トイレ前の廊下では、娘を待っていた夫婦が銅像と化していた。

 つまるところ運良く、あるいは運悪く、少女は石化現象から逃れてしまったらしい。


「うふぃふぃふぃ」


 少女の温もりを堪能しながら彦星くんは思う。流石にこの少女を放置するわけにはいかない。紳士として。どこか安全な場所に避難させるべきだろう。

 ついでに戦場の外で自分も身体を休めることができれば万々歳だと彦星くんは結論づけた。


「ホテルの外にゴーアウェイ。うん、一緒にここを出りゅ?」


 彦星くんの提案に、少女はフルフルと首を振る。否定されてると思っていなかった彦星くんは驚いた。


「ゆ!? なんで!?」

「パパとママが……心配で……」


 そう言われると困ってしまう。


「た、たぶん銅像のままだよ? 見てもいてもどーにもならないよ? えっと……」


 少女の名前がわからない。どう呼びかけていいかまごついた彦星くんに、少女は名乗った。


「蛍……佐々木蛍です」

「みゅ、ぼくは、ダーク「彦星くんだよね!」……うん、そーだよ!」


 彦星くんの名乗りが途中で止められる。彼が化けているのは彦星だ。その呼び名も間違いではないと、彼はそのまま頷いた。少女は己が彦星くんだからこそ信頼しているのだろう。わざわざ少女――蛍の言を否定したところで、彼女を不安にさせるだけだ。

 蛍は震えながらも強い目で彦星くんを見つめる。


「でも、すぐそこにいるんだよ、助けられないかな?」

「いやー、それは」


 難しいんじゃないかなぁ、可愛い女の子ならまだしも夫婦(リア充ども)の銅像を抱えて外まで行くのも嫌だしぃ、と言おうとして。涙腺を決壊させかけている蛍に彦星くんは狼狽えた。女の子に泣かれると、困る。そして、つい言ってしまう。


「見……見るだけだよ、ボクで助けられるか、見て、駄目だったら、一緒にホテルの外に避難しようね! ひっひゃ!」


 愛想笑いなど生まれてこの方したことがない彦星くんだ。不気味な笑い声しか出ない。はっきり言って最初から不審者同然だったが、状況の異常さと着ぐるみの可愛らしさとのおかげか、蛍は彦星くんに心を許していた


「ホント! ありがとう! 彦星くん!」

「心配しないで! 明日になったらきっとみんな元に戻ってるからね!」


 さらに抱きしめてくる蛍に彦星くんは着ぐるみの鼻の下を盛大に伸ばしながら、早まったかな、と小さじ一杯ぐらいしかない理性で呟いた。



 さて、式神を追跡していた人形好きの二人組である。が、なんと普通に撒かれてしまった。フェリティシアの人形群による追跡も、逃げに徹した式神には追いつけなかった。賢一と三日月の一心同体人形体術も、執事は軽やかに躱してしまう。

 割とインドア派のフェリティシアと賢一の体力は次第に尽き、ホテル四階で完全に式神の姿を見失ってしまった。人形遣いと人形師は四階の客室が並ぶ廊下の隅で荒れた息を整えていた。賢一は両手に膝をつき中腰の姿勢。フェリティシアは完全に座り込んでいた。


「あの、クソ、ハァッ……執事ぜってぇ、フゥ、許さねぇ」

「同意っ!……すぅー、はぁー」


 深呼吸等で疲労を回復させた二人は気を取り直してホテルの散策を再開することにした。参加者に逃げられたのは痛かったが、後悔ばかりしていられない。 人形 ミクロコスモスを完成させるための努力を二人は惜しむつもりはなかった。


「あの執事にまた会ったらどうするの?」

「負けだ負けだって言いまくって敗北者のレッテル張りまくれば逃げないんじゃね。プライド高そうだし」

「下手な権謀は逆に利用されそうだし、そういうエモーショナルな戦略の方が良さそうなのは確か。うんうん」


 と、式神への対策を話し合いながら歩いていると、賢一は廊下の途中でピタリと足を止めた。キョロキョロと賢一は周辺を見渡す。



 賢一は 人形 ミクロコスモスの香りを、その変質者的人形愛ゆえに嗅ぎ取った。フェリティシアはもはやツッコミもせず平静に聞き返す。


「ん、誰? オールドローズ? 式神? それとも彦星のカリカチュア?」

「どれでもないな。共鳴はしてないが…… の残り香がする」


 賢一は鼻をひくひくさせる。犬のようであるが変能による探知である。信頼性はあった。


(変能で 人形 ミクロコスモスを嗅ぎ取って――そういえば私、賢一の変能知らないな。どう考えても人形関係だろうけど)


 慌ただしいことの連続で、聞くのを完全に忘れていた。フェリティシアは賢一にどのような変能を持っているか問おうとして、思いとどまる。

 賢一の鼻息が荒い。目も欲望で煮えたぎっている。賢一は 人形 ミクロコスモスの残り香を嗅いで大興奮していた。玩具で元気いっぱいどころか狂気じみて遊ぶ犬猫のような具合である。


「うわっ……」


 感情が荒ぶっている賢一にすぐ聞くのは時期ではないだろう。後で聞こう。

 そんなことを考えているフェリティシアの視線の先で、賢一はSTAFF ONLYと書かれた従業員用の扉の前で立ち止まった。


「ここだ!」

「……なるほど、ホテル全部が舞台だもんね。そりゃ裏側も範囲になるか」


 賢一は罠がないか軽くドアを調べるとフェリティシアと共に中へ入った。無機質な白い壁と白い支柱、蛍光灯に照らされてあるのは下へ続く階段だった。賢一は無言で下を指差す。フェリティシアも黙して頷いた。

 現在四階。下へ降りる、三階。下へ降りる、二階。下へ降りる、一階。そしてさらに下へ降りて、地下。

 そこにはセキュリティルームと乱暴な字体で書かれた鉄製の扉があった。

 組織や人は見た目に凝っても中身は――特に内輪の者しか見ないような、関係者以外立ち入り禁止の場所は、どこまでも雑なものだ。一流どころならまだしもホテルショコラガーデンは衛星都市の片隅にある、経営難のホテルである。裏側にクオリティを期待する方が酷だ。

 だから扉には違和感はない。あるのは 人形 ミクロコスモスの共鳴だ。賢一はにおい(・・・)でも、感じ取っている。

 共鳴でわかる。この先にパーツがある。においでわかる。この先に がある。


「この扉の向こうだ」

「奇襲する?」

「無駄だ、向こうも気づいている」


  人形 ミクロコスモス所持者はパーツが近くにあれば感知できる。賢一が共鳴を感じるなら、向こうも同じだ。

 賢一は潔くセキュリティルームのドアをノックした。


「入っていいか?」

「率直過ぎるでしょ、友達か何か??」


 フェリティシアもマイペースだが、賢一はそれ以上に我が道を行っていた。まるで知り合いの家に訪問したような気軽さである。

 しばらくの沈黙の後、セキュリティルームから男の声がした。冷たさを感じさせる低めの声だった。


「構いませんが……武装は解除してください。こちらも、何もしませんので」

「嘘でしょ、そんなの通じると思ってるの?」


 フェリティシアにはのこのこ無防備に部屋に入った瞬間に瞬殺される未来しか見えない。


「あー、いや、うーん……」


 しかし賢一は腕を組んで、わざとらしく首を捻った。


「……なんで悩んでいるのかな、賢一」

「いや、三日月は俺の半身だからセーフかなって」


 すっとぼけた顔で自論を述べる賢一にフェリティシアは呆れた。

 いや気持ちはわかる。わかりすぎるほどわかる。だが人形趣味ではない人には通じないだろう。溜め息交じりに「無茶よ」と発しようとしたが、それはセキュリティルームの声に遮られる。


「まったくホントにあなたは――「それは構わないが、 大剣 ・・は、外してください」――え?」

「あ?」


 フェリティシアと賢一は二人揃ってセキュリティルームの扉を凝視した。壁の向こうから聞こえた台詞は、どう考えてもおかしい。


「アンタあの、眼鏡の奴だろ……? 三日月がどんな子も知らないはずだ。俺は人形も剣もアンタの前で出してない」


 大剣を携えた三日月をはじめて取り出したのは、オールドローズも闖入者三人組もいなくなった庭園でのことだ。その後、式神と倒れた彦星くんの前でも三日月を見せつけた覚えはあるが――最後の一人、眼鏡の男には見せていない。セキュリティルームの男が、三日月のことを知っているのはおかしい。大剣の件も言わずもがなだ。

 だが扉の向こうの男は知っている。その理由はこの場所そのもの。


「ということは……セキュリティルーム……監視カメラか!」


 パーティホール、フロント、その他諸々当然のように設置されている監視カメラ。それを統括するのは地下のセキュリティルーム。銀縁眼鏡の男はここからホテル中を監視していた。


「そして、ええ、賢一の鼻じゃなきゃここに辿り着けなかった。この場所、一階だとパーツが共鳴しないぐらいの深さにあるってことね?」


 セキュリティルームという陣地は隠密性、情報収集の点において最高の場所だったというわけだ。人形の残り香なんていう異質なものを感知できる賢一さえいなければ圧倒的優位の立場だった。そう簡単に居場所がバレないように四階から地下へ降りるという工夫さえも嗅ぎ取られ、眼鏡の男のカラクリは見抜かれた。されどセキュリティルームにいる 人形 ミクロコスモス所持者、銀縁眼鏡の男は冷たい声で返した。


「ああ、その通り。仰る通りです。だが、それは私の要求に関与しない。別問題、です」


 銀縁眼鏡の男は自分の策謀を言い当てられながら、いささかも動揺しなかった。非常に強情で、底知れなかった。賢一とフェリティシアに譲歩するという姿勢すら感じられない。

 賢一は口を真一文字にする。


「あー、信用されねぇのはわかる。だが俺は三日月と離れない。大剣も外さない。というわけで妥協案として、扉越しに少し話さないか?」


 セキュリティルームの向こう側にいる誰かさんが譲る気がないというのなら、こっちから譲れば良いと賢一は発想を転換させた。扉の向こうの男は呟くように応えた。


「……聞くだけなら」


 硬い声である。銀縁眼鏡の男に油断はないのだろう。緊張感溢れる空気を傍観しつつ、フェリティシアはもはや諦めの境地である。


(本当にお話好きだなぁ、賢一。人間なんてどうでもいいと真顔で言うような男のくせに)

 
 
 

 対話を欠かさない賢一は名乗りもしっかりと行う。


「俺の名前は賢一、冬川賢一だよ。こっちの人は、まぁ見ていただろうがフェリティシア・ルノアールだ」

「どうも、フェリティシアよ」

「よし、名前を教えろよ。ついでに性癖をぶちまけてもいいぜ?」


 返答は、あった。


「………ルカジャン・ゲイリー、だ。性癖については、ノーコメント」

「ルカ?」


 フェリティシアの言に銀縁眼鏡の男、ルカジャンは否定する。


「違う、ルカジャンまでが名前だ。別に、あなたにどう呼ばれようと、私は気にしないが」


 心底どうでもいいというような口調だった。フェリティシアはルカジャンの態度に気分を害することもなく素直に謝る。


「あら、そう、ごめんね、ルカジャン」


 次に言葉を発するのは賢一である。


「ふーん、ならルカジャン。アンタはこのホテルの戦況がわかっているんだよな?」

「ああ」


 賢一の言葉を肯定するルカジャン。作戦がバレている状態で誤魔化すのは無意味だ。


「それを――他の参加者の情報をいくつか教えてくれたら、今回だけは見逃してもいいぜ?」


 突然の賢い提案にフェリティシアは驚愕した。賢一の口からから、そんな交渉事が出るなんて信じられなかった。


「え!? 賢一、あなたそういう駆け引きするの? ていうかできたんだ」


 賢一は不服そうにフェリティシアを見返す。


「お前、俺のことなんだと思ってんだよ。情報を隠す趣味がねぇだけで俺は馬鹿じゃないからな?」

「趣味云々で命賭けてるあたりただの馬鹿だと思うけど……」


 情報を隠す趣味がないからと、弱点になるかもしれない名前やらなにやら垂れ流しにする男は、まぁ馬鹿である。

 一番賢いと名前についた賢一は、鼻をふんと鳴らしてシニカルに告げた。


「お前人のこと言えんのか、セカンドチャンス」

「………………………」


 痛烈なカウンターにフェリティシアは押し黙った。一緒にされたくないとか、あなた私に二度危機を救われてるけど三度目あるの思ってるの、とか。あなたそれに助けられたと思うんだけど? とか。それはもうたくさん思ったが聡明で大人なフェリティシア・ルノアールは賢一の売り言葉を沈黙によってスルーする。

 さて、そんな賢一とフェリティシアの掛け合いは置いておいて。

 ルカジャンは賢一の取引を吟味する。答えが出たのか、二十秒ほど経った頃ルカジャンは絞り出すように言った。


「………いいでしょう。しばらくお待ちください」

「おう、しばらくお待ちするぜ」


 賢一は片手をつきだし、元気よく了承した。あとお待ち~は尊敬語だ、自分で言うな、とフェリティシアは言いかけたが、日本語ネイティブではないのでツッコミは差し控えた。

 その代わり感心を素直に伝える。


「双方に利益のある提案ね、私たちは参加者の情報がわかる。ルカジャンは代わらず引きこもれる……」


 セキュリティルームへ押し入ってルカジャンを打倒し、 人形 ミクロコスモスのパーツと一緒にセキュリティルームも奪取してしても良かった、と彼女は頭の片隅で思う。

 だが情報を引き出すかルカジャンを攻撃するか、どちらが正しいかは一概には断言できないこともフェリティシアはわかっていた。敵はルカジャン・ゲイリーだけではないのだ。オールドローズやら式神やら彦星くんやら……それに、ルカジャンを襲うなら後でもできる。もっと効率的に。そしてそれは賢一も考えているはずだ。

 フェリティシアと賢一は顔を合わせ、頷いた。

 そんな不吉な、無言のやり取りを知らない……セキュリティルーム前は監視カメラがついていない……ルカジャン・ゲイリーは扉越しに告げる。


「では二点だけお教えしましょう。まず一つ、着ぐるみの彦星ですが……彼は変身能力の持ち主なようです」

「変身、ねぇ。具体的には?」


 賢一は情報を出し渋るルカジャンへ具体性を要求する。曖昧な表現などいらない。ルカジャンはそれに応える。


「小さな、ネズミでしょうか? に変化したシーンがフロントのカメラに映っていたので、確かです」

「うーん、有益。有益だけど、もっと言うと位置が知りたいな。次は他の参加者の位置を教えてくれない?」


 敵の変能、能力を知っているというのはとてつもないアドバンテージだが、接触できなければそもそも敵を倒すことはできない。


「そうですか。好戦的、ですね。では……おや」


 ルカジャンはふと気づいたように言った。


「ん、どうした?」

「位置、ではあるな……ありますね。二階レストラン前で……常盤のエージェントとオールドローズたちが、接敵しました」



 賢一とフェリティシアを撒いた式神は一度最上階のスウィートルームを経由してから二階レストランへと戻った。自分が警察庁霊障対策室と共に仕込んだ捨て石、銀の 指揮棒 タクトの経過を見るためにだ。彼は階段を駆け足で登っていったため、エレベーターで下へと降りていくオールドローズたちと入れ違いになった。もちろん互いの存在には気づかない。

 式神が聡とオールドローズが去った後、スウィートルームに辿り着くと、そこにはズタズタに引き裂かれた部屋と銅像と化した構成員たちしかいなかった。

 故にわかったこともある。


人形 ミクロコスモスというキーワードだけ教えた“霊対”が無事で、願いを叶える儀式と伝えた銀の 指揮棒 タクトが銅像と化していらっしゃった以上、ルールが見えた、かもしれません。ただあくまで一対一の対象実験ですからね。確証はありません。部屋が血だらけでボロボロだったことから何者かと接触した……つまり不確定要素が混じってしまった可能性もある。どこかで確かめなくては……)


 黙々と作戦を脳内で練りつつ、式神は、エレベーターに乗って二階に降りた。そして、面倒だったので変能を活かしてするりとレストランへ入り込む。しばらくニコニコと笑みを浮かべて常盤しずねの横に立っていると、ようやくしレストランの全員がいつのまにかそこにいた式神に気づいた。


「式神! 戻りましたか!」

「またしても貴様、よくわからんところから……!」


 相も変わらずしずねは式神の無事を喜び、SP達は式神を忌避していた。

 式神はどちらに対しても優雅に一礼する。


「ええ、なかなか一筋縄ではいきませんで……ふむ?」


 式神は振り向いた。懐で 人形 ミクロコスモスが共鳴している。


「いらっしゃいましたね」

「なに! 本当ですか」

「………式神」


 SPの 統率者 リーダーに名前を呼ばれて、式神は微笑を浮かべて首を傾げる。底知れぬ不穏さのある式神にやや気圧されながらも 統率者 リーダーは思い切って命じた。


「貴様一人で見てこい」


 SPの暴挙にしずねは声を荒げる。


「なっ――! 鈴木! 都合の良いことにわざわざここに来てるんですよ? 式神と共にチームを作ってですね……」

「しずね様!」


 鈴木と呼ばれたSPリーダーは強く自らの保護対象へ告げた。


「失礼ながら言わせていただきますが! 我々はしずね様を守るためのSPです。敵へ特攻してはしずね様を守れません。敵に対応するべきなのは、この、馬鹿げた夜に我々を巻き込んだ式神であるべきです!」

「いいえ、私が命じます! 式神も守りなさい!」

「聞けません! 式神、速く行け! テーブルの下のアレを使って敵を此処から引き離してもいい!」

「式神、少し待ってください。キッチンにいる彼の意見の聞いてみるべきではないでしょうか? それからでも遅くはありません」


 言い争う常盤しずねとSPリーダーに他のSP達は戸惑う。式神も敵が迫っている場面でやることでもないだろうと呆れた。


「はぁ」

「式神……?」


 間の抜けた溜め息のような返答に、しずねは瞠目した。


「ああ、失礼いたしました、しずね様。貴重な時間を無駄にするわけには参りませんので、……こちらにご注目ください」


 そう言って式神はしずねの目の前で両手を打ち合わせた。高らかに鳴った拍手の音にしずねはしゃっくりあげるように驚き。

 式神の変能によって、精神的ショックを受けたしずねの心が真っ白になった。そのしずねに式神は告げる。


「《一分前後の記憶を忘れてください》」

「―――」


 呆けたように口を半開きにしたしずねにSPリーダー鈴木は怒号をあげた。


「しき、式神、貴様、ついに馬脚を露し――!!」

「皆様、SPの皆様―――『役立たず共』!!!!」


 SPリーダーの言葉も聞かず、式神は彼を――彼らをより大きい声で喝破する。その罵倒はしずねの私兵(SP)の精神を吹き飛ばす。


「「「―――――」」」

「《今いらっしゃってるお客様を暴力で歓迎してください、盛大に!》」


 式神の言葉を聞いたSP達はぞろぞろとレストランの外へと出て行った。


 最上階から、適当に押した三階へエレベーターで降りたオールドローズと聡は、三階を散策した後、階段で二階へと降りた。そして階段を降り切った、廊下への一歩目でレストランにパーツ所持者がいることを把握した。入口を守る黒服の男たちとオールドローズが対峙する。

 そして二階のレストラン前に現れたオールドローズへ常盤しずねの私兵(SP)たちが襲い掛かる。彼らは思考停止したまま磨き上げられた柔術等の技を振るう。だが対人形用の暴力など、怪物であるオールドローズには届かない。


「ワンショット」


 凶器の腕が振られる。その場にいたすべてのSPたちが弾き飛ばされた。冗談のように無数の人体が宙に浮き、天井、壁、床に叩きつけられる。レストラン前に立っていたSP達は一瞬にして全滅した。


「オール・キル……なんてな! 殺してはないさ!」

「はーはっはっはっ! いやぁ、良い光景だ! スカっとするね!!」


 全員倒されたことを確認すると、聡は壁の影からひょこりと顔を出した。黒服たちを見て彼はすぐに隠れたのだ。戦闘が終わった後、悠々自適に吸血鬼に近づき、彼は喜びを露わにする。オールドローズは不敵に告げた。


「はっ、聡が良いのなら快い。お前こそが我が主なのだから」

「良いなんてもんじゃないさ。最高に使える従者と、どんな願いも叶える人形を貰えるなんて、実に僕が選ばれてて、気分がいい」


 ようやっと聡は、自身はチートな従者を得たのだと、強くて無双ゲーを行えてるのだと実感できてご満悦だった。理不尽に振り回されるのはもうオシマイ。今度は自分たちが理不尽に振り回す番だと絶好調になっていた。

 しかし、今夜に、そんな優越感は似合わない。オールドローズはレストランの出入り口に立った誰かの気配に目をやった。


「……ふん、そううまくはいかんようだぞ。本命のお出ましだ。下がれ聡」


 レストランから無防備に一人の執事服を着た青年――式神が現れた。柔和な風貌に感心の感情を映しながら、無音の足運びで周囲を見回す。


「あーあー、常盤の私兵(SP)が……。うーむ、人間以外の参加者とかマジやばいですね。こわっ」

「なんだあいつ?」


 聡は呆れる。自身の同年代だろう優男、危険性があるようには思えない。従える吸血鬼に比べれば無害な兎も同然だ。こんなに恐ろしくないのであれば、話に聞く変能でもないだろう……。


「……」


 吸血鬼は、その異様な目を執事から離さない。間違いない、二人目の変能だ。

 式神はピタリと足を止めて、聡、そしてオールドローズを真正面に観察する。真っ赤な吸血鬼を視界に収め、式神は一瞬真顔になった。あの時は奇襲して即座に離脱したから気づかなかったが、この赤い吸血鬼は……。


「……おや? あなた……わたくしと同属でございますね」

「んー? どこらへんがだ、変能?」


 オールドローズは 変能 きさまと一緒にされたくないという腹立たしさを隠しつつ、化け物らしく愉悦たっぷりに聞き返す。式神は肩をすくめた。


「ああ、自覚がないならいいんですよ。。……それで? いったいいかなる御用でこちらにいらっしゃったのでしょうか?」


 式神の慇懃無礼な態度に聡は堂々と言った。


「そりゃ、 人形 ミクロコスモスのパーツを貰いに来たのさ。後ろでひっこんでた弱虫が出てきたってことは、くれるってことでいいんだよな? お前に戦闘能力があるなら、黒服と一緒に襲い掛かってきてたはずだし」

「へー、思ったより頭は悪くないんですね。ええ、戦力の逐次投入なんて、持ち駒をすり減らすだけの愚策でございます。なるほどなるほど……」


 オールドローズは執事の薄っぺらな言葉に哂う。


「はっ! そんなこと気にするタマかよお前が。匂うぞ……己しか愛せない傲慢さがプンプンとな」

「……ふむ」


 執事の柔和な顔に浮かんでいた笑みは、おおげさで演技めいた不満に変わる。


「戦力の逐次投入? 笑わせるな。 戦力 ・・にすら数えていないだろうが。あれは私たちを探るためのだ。……そういうことだろう? 同属とやら」


 それは怪物の論理である。それは悪魔の発想である。式神は邪悪性を以って、オールドローズを同属と呼んだ……わけではない。オールドローズの解釈は見当違いだ。式神がオールドローズを同属と断じたのは別の理由である。

 だが式神はそれを指摘しない。気づかれても不愉快だからだ。だから式神は溜め息を吐いた。


「……なるほど。お話はよぉぉぉぉく、わかりました。ふー………」


 そしてニヤリと笑う。


「ならそんなこともわからない、そこのどうでもいい彼は、『無能』ですね?」

 
 
 

「あ?」


オールドローズのドスの利いた声もなんのその、式神は調子良く罵倒を並べ立てる。


「あれだけわたくしが戦えない理屈をドヤ顔で語っておいて! 全然違うっていうね!いやー、恥ずかしい! これは恥ずかしい!! あんだけこの吸血鬼に偉そうにしてて! それですか! ちゃんちゃらおかしいですね!! あ、もしかして職業道化さんですか? それとも芸人?」


津波のように浴びせかけられる悪意の洪水に聡は鼻白む。


「な、なんだよ……うるせぇよ! お前にそんなこと言われる筋合いな……ゴフッ……え……?」


聡の視界が歪み、真っ白に染まっていく。歯が自然にガチ……ガチ……とかみ合い、ぐらりと、彼はホテルの床に倒れた。


「……なっ!?」


吸血鬼はその現象に驚いた。なんの力も、動作も感じなかった。変能とはかくも非常識。吸血鬼の鋭利に研ぎ澄まされた感覚ですら、聡がただ倒れたとしか思えなかった。そしてこれで手を緩めるほど式神という執事は甘くない。


「わたくしのお嬢様への愛を侮辱した、罪人め。『主も守れぬ哀れなドラキュリーナ』のまま、《負けて、朽ちろ》」


まるで幽鬼のごとく、一瞬して吸血鬼の眼前に執事が――式神が現れた。白手袋に包まれた手には拳銃が握られている。

オールドローズは、その拳銃を払いのけ、愚かにも吸血鬼に近づいた執事を屈服させようとした。何をしたかは知らないが、変能とはいえただの人間。怪物であるオールドローズの膂力には千切れ飛ぶのみ――。

しかし、攻撃さえ不可能だった。彼女はかくりと、首を後ろに倒した。目はうつろになり、口は半開きになる。それは、額を自ら銃口に捧げるようで――、その一瞬だけで、式神が弾丸を撃つには十分だった。

乾いた衝撃音とともに、オールドローズの頭の後ろから血しぶきが飛び散る。ドサリと、真っ赤で小さな少女は倒れた。

執事はいたって平静に、少女の服を手早く検査した。すぐさま人形(ミクロコスモス)の右足パーツを奪い去ると、式神は内ポケットに小さなそれを入れる。これで左腕と右足が揃った。

式神はオールドローズが動き出す前に、踵を返してレストラン内に戻った。

急ぐ執事はテーブルを力任せにひっくり返す。テーブル下に仕込んでいたのは、いざという時の脱出手段。

それはバイクだった。式神はぼんやりとした顔で呆けているしずねを抱え上げてバイクの座席に座らせる。

そして彼はぴくっと眉を跳ね上げてレストラン奥のキッチンから表へ出てきた彼へ話しかけた。


「田中さん、一緒にお逃げになられますか?」


一人の男だった。老年の執事だった。裏方に回り、常盤しずねやSP達に給仕を行っていた田中は真顔で告げる。


「いいえ、老骨に二輪は堪えますからな。をお任せします………」


その表情は無念に満ちていた。恨みと諦観と悲しみを深い皺と共に混ぜ込んだような老執事へ、式神は優しく微笑む。


「任されました」


常盤しずねのの頼みに式神は頷いた。物腰柔らかな式神に田中は眉をひそめる。


「式神、一つだけ約束してください。決して、決してしずねお嬢様を傷つけることのないように――」

「約束します」


祈るような田中の言葉へ式神は即答すると老執事の目と鼻の先で思いっきり指を鳴らした。


「―――」

「《 人形 ミクロコスモスを忘れてください》」


茫然自失の老執事田中は何の変化もしない。そして田中が我を取り戻した時、式神は片手で田中の顔面を掴んだ。あまりの暴挙に再び田中は精神的ショックを受け、心を吹き飛ばされる。空白の意識に畳み掛けるように式神は田中へ命じた。


「《人形という概念を忘れてください》」


すると田中は目を開いて、手足指先から銅像と化していく。老執事は我を取り戻すがもう遅い。凄まじい速度で浸食する銅像化現象はごく短時間で彼の全身まで広がった。


「し、しき、がみ……あなたには、必ず……因果応報が……ああ、お嬢様が……お可哀想……」


田中は予想通り、銅像と化した。式神は恨み言を吐かれたことも忘れて、目の前で起きた現象を分析する。彼は非情な、サディストの、変能である。


「人形という概念を強く意識しているかどうかで銅像となるかならないかが決まってるんですね。ファジーなルールでございます……しまったな。オールドローズをこれで無力化できましたのに。つくづく運が悪い……」


あと少し時間があれば、この実験さえ済ませていればてオールドローズを銅像に変えられたというのに。だが仕方あるまい。もしも《 人形 ミクロコスモスを忘れろ》という命令をぶっつけ本番で下していれば、効かなかった。つまり、次の正しい命令を入れる前の、一瞬の正気の間に式神は始末されていた。化け物に、その時間の隙間は充分過ぎる。だから式神は間違えていない。知りえる範囲では、あの手順が最善だった。

ただ、ひたすらに式神にとっては巡り合わせが悪かっただけなのだ。

式神はぶつぶつ呟きながらバイクにまたがりエンジンを入れた。しずねを前面に置き、胸に抱えるようにハンドルを掴む。


「しずね様、しずね様、捕まってください」

「……は、はい。式神?」


しずねは寝起きに頼まれたような心もとない動作で、式神の腕を掴んだ。


「襲われたので、逃げます」

「……えっ!?」


しずねが状況を把握する前にバイクは猛スピードで発進し、レストランの扉を吹き飛ばす。ついでにオールドローズを盛大に轢きつつ、廊下を爆速で進む。


「あー、これはだいぶまずいと存じます……」

「しき、しきが、み? ひ、人を、人を殺して……っ!」


オールドローズを盛大にバイクで轢いたのを見て、しずねは声を詰まらせる。式神は風で髪をたなびかせながら微笑した。


「……死んでないですよ。木の杭も銀の弾丸も用意してないから逃げるしかないのです」

「なにを言ってるんですか? それじゃまるで……本当に吸血鬼を相手にしてるようじゃないですか……! 本当の化け物なんているわけがありません!」


しずねはオールドローズが暴れる場面も、SP達が一蹴される場面も見ていないため、吸血鬼の存在を未だ知らなかった。彼女はあくまで表社会の富豪の娘である。裏社会の、特に伝説的怪物のことなど当然のように把握していない。

そしてこれから知ることになる。


「ふーむ、でしたらしずね様、どうぞ後ろをご覧ください。論より証拠でございます」


後ろからブォーンという音が響いてきた。走り屋など目ではない重厚さは一種の殺意を伴って低く轟く。まるで廊下からホテル中を揺らしているような爆音だった。

しずねは恐ろしく嫌な予感がした。


時は少し戻り、式神に脳天を撃ち抜かれ、バイクに轢かれた吸血鬼は目を覚ました。覚醒した瞬間、治りが鈍くなっていた肉体は伝説的吸血鬼に相応しく即座に回復する。

彼女は床へ手をつくことなく、冗談のように一瞬で起き上がり、両足でしっかりと立つ。そして額から流れる血を撫でた。


「……あんの クソ従者 サーヴァント……」


オールドローズは口をもごもごさせると、忌々しそうに金属の塊を吐き出した。それは銃弾だった。甲高い音を立てて銃弾はホテルの床に転がり、自然に止まる。吸血鬼は吐き出した銃弾を右足で粉砕し、踏みにじる。舐めた真似をしてくれる。

そして荒々しい歩みで横たわっている聡の傍へ近寄った。


「起きろ主、五秒で起きないと食い殺すぞ。はい五ォー一ィー……ゼ」

「やめろぉぉぉぉぉ!! 数えんの横着して殺すんじゃねぇ!!」


聡は勢いよく起き上がり、オールドローズへ向かって叫ぶ。大嫌いな変能にしてやられ、怒り心頭だったオールドローズは聡の愉快な言動によって少し気分が和らぐ。


「よし、大丈夫そうだな。……さて、どうする? パーツを奪われてしまった。しかもまさにあの執事は逃げている……。追うか? それとも態勢を立て直すか?」


吸血鬼が提示する選択肢に、聡は涙目になって吐き捨てる。


「……クソ! もう勝手にしろ! なんだよ全然僕のこと守れてねーじゃねーか!! わけわかんねーよ、あの変な男もお前もぉ!」


そのある意味幼稚な叫びに、オールドローズは茶化すように、されど決して馬鹿にすることなく笑った。


「なんだ聡、もしやあの執事の言うことを気にしているのか? だとしたら、実に見当違いだ……お前は決して無能などではない。むしろ、実に優秀だ」

「あ、ああ……?」


半狂乱な聡は戸惑う。相も変わらず化け物が吐くとは思えない、甘い言葉だ。ここまでいいように敵にやられておいて、なお暖かい言葉だ。

戸惑ったことで冷静さと正気が戻ってきた主にオールドローズは囁く。


「なんだ、疑っているのか? 私は本心から言っているぞ。お前は 化け物 わたしを振るうに値する。お前は間違ってなどいない――間違っているとしたら、致命的にあの執事だ」


「……ほん、とうか?」


縋るように、まるで幼子か壊れ物に手を伸ばすような、繊細な様子で聡はオールドローズへ聞き返す。本当に、聡はまだ終わっていないのか。オールドローズを信じていいのか。あの邪悪な執事を倒すことができるのか。

オールドローズは滑らかに答えた。


「本当だ。その上で考えろ我が主。さぁ、あの間違っている執事に――クソッタレのオリジナルに、変能に、この私を使ってどうやって一泡吹かす? お前なら、できるはずだ」


オールドローズは知っている。戯れに主にした聡という男は追い詰められた時に輝く男だと。ではそんな男の機嫌をとってとりまくり、調子に乗らせればどうなるのだろう? 式神の罵倒通り、無能になる? それとも……。


「は、はは……はははは! 僕が優秀なんてぇ! 言われなくてもわかってるさ!! そこまで言うんだったら、とびっきり屈辱的なことやってやろうか! いいか、よく聞けよ……!」




式神の後ろから迫るのはまさしくモンスターバイクだった。錆びついた血の色をした人外のパーツで構成された二輪車が、執事としずねを後ろから食い殺そうと猛然と走る。バイクには血肉で五体を作ったグロテスクな人型のナニカが跨っていた。

式神の脇下から後ろのモンスターバイクを見て、唖然とするしずね。意味がわからない。ホテルの中にバイクを持ち込むような常識外の考えをする奴が式神の他にいる? 冗談にもほどがある。

対して式神は冷静に述べた。


「ありゃりゃ……駐車場にあっただろうバイクを盗んで……ふむ、オールドローズが取り込んだのでしょうね」


ホテルの中にないのならば、外へ取ってくれば良いのだ。吸血鬼とその主は、ホテルの駐車場にあったバイクを奪った――。いや吸血鬼の能力を使ってバイクを強化・支配したのだろう。血肉を使って飾り付け、追いついて殺す。力任せだ。吸血鬼に相応しい。

気の抜けた分析と共に、拳銃の銃弾で後ろのバイクを打ち込む式神。一発、二発、三発……すぐにトリガーを引いてもカチリカチリと音が鳴るばかりで弾が出なくなった。


「……駄目ですね、当たりません、さすがにこんな動きまくってる状況じゃ無理です」


運転しながら片手を離し、拳銃で移動する物体を狙えるほど式神の狙撃技術は優れてはいない。人型のナニカにもバイクにもヒットしなかった。

絶体絶命をのほほんと告げる式神へ、しずねは半狂乱になる。


「いいんですか!? 弾がなくなってますよ! ねぇ! それでいいんですかぁ!?」

「予備の弾はなんであんまよくないですね。よいしょっと」


あははーと困ったように笑いながら、執事は拳銃を後方のバイクへ放り投げた。どうせ常盤の私兵からチョロまかした玩具だ。惜しくはない。

パシリとバイクに乗った人型の何かが拳銃をキャッチした。その姿は、あの女吸血鬼にも、傍にいた男にも似つかない。全身をバイクと同じ赤黒い血の色に染めた大柄なナニカが、手で拳銃を握りつぶした。哂っている。式神としずねは、顔すらないその生き物が哂っているのを直感的に理解した。


「し、式神! 全速前進です! 絶対捕まらないでください!」

「かしこまりました、しずね様」


式神は平静に答え、バイクをより加速させた。バイクのことはよくわからないしずねだが、その速度はまさにレーシングに匹敵するような風を切るようなものだった。


「やれやれ、追いかけられるよりかは追いかける派なんですがね」


式神はバイク側面に留め金で備え付けていた拡声器を手に取り、カチリとスイッチを入れた。曲芸じみた運転が続くが、想定内だ。問題ない。


「わたくしのお嬢様への愛を馬鹿にするだけでは飽き足らず、ついには主とまで離れますかー!! どこまで誇りがないんだ! はっ!わたくしが罰を下さずともとっくに魂が朽ちて腐ってるんですね!この『罪深い哀れな蚊』め!!」


精神的ショックを与えるための罵倒。だが、吸血鬼のバイクは止まらない。それどころか常識を超えてさらに加速し、式神たちに迫る。


(……まったく効かない? もう対策取られたのでしょうか? いや……あの同類とメンタル鋼女が例外であって、わたくしの変能はそう簡単にわかるものでも躱せるものでもな……)


「――どんな手品だろうと」


オールドローズの声がした。後ろからではなく、横から。


「……!?」


窓の外から、化け物が――真紅の吸血鬼が飛び込んできた。


「タネがわかれば児戯と同じだ」


ガラスが飛び散り、オールドローズが迫る。


「ちぃっ! 防御態勢!!」


 その叫びとともに真横から垂直に降ってきたオールドローズが、バイク側面に突き刺さった。バイクが吹き飛ぶ。式神はハンドルから手を離し、拡声器を放り投げる。そして両手でしずねを胸に抱きかかえると受け身を取りながら廊下へ落下。ゴロゴロと床を転がり、強かに背中から壁へ身体を打ち付けた。


「ぐっ……」


 衝撃で苦悶の声を漏らす式神は壁へ背を預けて、襲ってきた怪物を見据える。オールドローズが両手を広げて、心底愉快そうに哂っていた。


「声が……いや、”罵倒”がトリガーか。ハハハ、愉快な変能だ。面白いぞ」


 式神の視線の先、バイクをスクラップに変えた吸血鬼が近づいてくる。


「し、式神……」


 執事の腕の中で、常盤しずねは涙目で震えていた。目を回しているようだが、身体には傷一つつけていない。庇ったのだから当然だ。彼はしずねをちらりと見ながら、周囲を観察しはじめた。


(逃げ道は……ちょっと難しいですかね、態勢が悪い。すぐに動けそうもありません)


 背中から壁へ激突したせいで、かなり息が苦しい。保護すべきしずねもいる。階段からは距離が遠すぎる。身体能力のごり押しで逃走は不可能。


「あーあー、吸血鬼殿ー?」


 状況を変えるための式神の呼びかけにオールドローズは亀裂ような笑みを浮かべる。


「ああ、すまんな執事、耳は潰したからもうお前が何言ってるかわからん。―――だが会話など必要ないだろう? ん?」


 言葉の通りオールドローズの耳は痛々しく引きちぎられていた。彼女には式神が口をパクパク動かしているようにしか見えていない。


「―――そうだな」


 さらに、モンスターバイクに乗っていた人型のナニカも床に降り立っていた。ぼとり、ぼとりと身体についているグロテスクな塊が落ちていく。その下には……汗と涙と鼻水とよだれをだらだらと垂らし震えている聡がいた。ナニカの正体は聡だった。


「くっそ、はやすぎんだよ!こえぇぇよ!! 息し辛いしよぉ!!」


 袖口で乱暴に顔を拭い、涙声で文句を垂らしている。聡の耳の部分には赤黒い肉片がついたままだった。

 オールドローズと聡、二人ともが耳を塞いでいる。


「あっちゃぁ……そういうことですか」

「ぐすっ……何言ってるかわからんが! 残念だったなぁ! お前が罵倒してたのは僕だよ! ぼ、僕が気絶して脱落して、気を抜いた瞬間にオールドローズに襲わせるつもりだったけど。僕は天才だからな! それ以前に、お前のタネなんか見破ってやった! バーカバーカ!! お前の間抜け面を嗤いつつ、外にいるオールドローズに知らせるのは大変だったぜぇ!!」


 半分ヤケになりながら、自分の考えた作戦を自慢する聡。自分が気絶していないことを疑問に思い、執事の罵倒がトリガーということに気付いたのは偶然だったが、その幸運に感謝することはしない。だって自分が勝つのは当たり前で正しいのだから。

 バイクに乗って全身をオールドローズの血肉で覆い、口にオールドローズの“部分”である蝙蝠を備えて通信する。人間と協力する吸血鬼などという夢物語でなければ成し得ないような荒唐無稽な作戦だった。

 オールドローズは不敵に告げる。


「さてと……主の名誉を奪還したところで、パーツをよこせ、サーヴァント。そしてさっさと失せろ。になどなりたくないだろう?」


 オールドローズの意趣返しの台詞。式神は大げさに溜め息を吐いた。


「……はぁぁぁぁぁぁぁ」

「式神……も、もういいから……」

「なんです? しずね様」


 自身の腕の中にいる彼女に尋ねる式神。式神は弱弱しく投げやりな態度だった。


「もう 人形 ミクロコスモスなんて、いりません。あなたさえいれば私はいいから……ね? もうやめましょう?」


 しずねの瞳から涙が零れ落ちる。


「ふぅぅ……そうでございますか……」


 式神はそう言って諦めたように、口惜しいと身体全体で示しながら。

 袖口から手品のように出した玩具のような銃で、横っ面からしずねの頭を打ち抜いた。


「……はっ!? ――――」

「……あ? ――――」


 罵倒がトリガー? いいや違う勘違いだ。精神的ショックを与えられれば何でもいい。言葉責めは手段の一つに過ぎない。だから別のショック要員として常盤しずねを連れてきたのだ。かくして吸血鬼の青年の心を吹き飛ばし――。


(《 人形 ミクロコスモスについて忘れろ》――いや駄目ですね。オールドローズの耳は潰れていて彼の耳は塞がっている。となると)


 そのまま式神は滑るように腕を動かし、聡の耳についたオールドローズの血肉を銃で吹き飛ばした。これで聡には式神の声が聞こえる。


「《その吸血鬼に自分の首をねじ切れと言え、そしてそれから目を離すな》」


「……《自分の首をねじ切れ、オールドローズ》」

 

 それで勝負は決着したも同然だった。彼らはその言葉に従い、互いに精神的ショックを与える。自己破壊を命じられ実行したこと、血みどろでグロテスクな首切りを直視すること。強烈だ。しばらくは正気を取り戻せない。式神の変能は自身が与えた精神的ダメージなら、

 変能というものは埒外で、理不尽だ。茫然自失になるということは、理性を失うということである。何も考えられない人間は言われたままにしか行動できない。

 彼の変能の真価はここにある。心が吹き飛んだ人間は、我を取り戻すその短い間だけ、完全に彼の奴隷になる。

 それがただの人間であれば眼前で指を鳴らすだけで、彼の命令は絶対になる。サディスト極まったがゆえの変能。人間の尊厳を破壊し、お手軽にインスタントに洗脳する。

式神彩人は邪悪だった。


 式神は吸血鬼の主従の様子を最後まで見ることなく立ち上がって背を向けて歩き始めた。バイクのエンジン音を高らかに響かせながらホテル中を爆走したのだ。さっさと逃げないと参加者が集まってくる。

 止めを刺すことができないのは痛いが、それは他の誰かがやってくれることを祈ろう。影も踏ませぬように逃げるだけなら容易いのだけが救いだった。

 ただ、この場で最後にひとつだけ、彼は呟いた。


「我が【協力者】常盤しずねさん……お付き合いいただきありがとうございました。謝礼は後で払っておきます……」


 式神はその超人的な身体能力によって、廊下を駆けてその場を去っていった。

 しずねをその場に放置して。



「……オールドローズが、執事にやられましたね。パーツも、奪われました」


 監視カメラに映った一連の事象を見届けて、セキュリティルームのルカジャンは経緯を賢一たちへ伝えた。


「てーことがあの執事が二つパーツを持ってるってことだよな? どこだ? どこに向かってる?」


 賢一は扉越しのルカジャンへ、式神の位置を問い質す。賢一たちは式神と相性が良い。彼を倒してパーツを二つ奪えれば万々歳だ。

 ルカジャンは数々の映像を見回して、式神の現在地を確認する。


「階段を、上へ上へと昇っています……現在四階から五階」

「そうか。あんがとさん。フェリティシア、先回りするぞ!」


 賢一はさっと振り返るとずんずんと歩を進める。地下から地上へ向かう階段を上っていく賢一の果断さに、フェリティシアはやれやれ、と肩をすぼめた。それから彼女はセキュリティルームの扉に向かって別れの挨拶をした。


「それじゃあ、さよなら。ルカジャン。次に会った時は敵だから、よろしくね」

「好きにしろ」


 ルカジャンはにべもなく吐き捨てた。先ほどまでの、つっかえつっかえの敬語とは違う。本心からの言葉のようだった。ある種の傲慢さが滲み出ている、素の態度だった。


「うん、好きにするよ」


 フェリティシアは軽く答えると、階段を上って地下から去っていった。

 再びたった一人の拠点となったセキュリティルーム。ルカジャン・ゲイリーは独り言を何かへ向かって投げかける。


「時刻は十九時五十二分。後八分。幸いになるよう夜の帳を落とそうか。……見守ることが愛ならば、それは全て果たされた。――たちよ、後悔のなきように」


 誰がどのように動き、どれくらいの強さなのかだいたいわかった。変能が不明な物も存在するが、それは充分カバーできる範囲。賢一とフェリティシアに根城がバレてしまった以上、最後まで籠ることはむしろ悪手となった。

 以上の根拠に加えて、あるきっかけの元、彼が動き出すまで、後八分。



 賢一とフェリティシアは地下から一階に上がり、裏手を通り抜けて関係者用の扉の向こう。先頭の賢一が先んじて出たのは、フロントのカウンター裏だった。彼がいる場所は受付なのでホテル正面が一望できる。

 ガラス製の自動ドアに吹き抜けの天井。フロントとはホテルの顔である。パーティ会場と同等程度の華美さだった。

 そしてその華美なフロント、カウンターの向こう側には、彦星くんと、彼が引率する一人の少女、佐々木蛍がいた。

 賢一とフェリティシア、彦星くんと蛍、二組の時間が一瞬、止まる。

 カウンターにいる賢一と、裏手から彦星くんらを視認したフェリティシアは、ルカジャンがあえて彼らについて言及しなかったことを理解する。式神ではない他の参加者と潰し合いをさせるためなのか。それとも着ぐるみ男の変能について説明してやったのだから奴も倒せ、なのか。

 どちらにしても悪辣な行いだった。

 対して彦星くんと蛍は完全無欠に不意打ちだった。

 一階トイレ前の佐々木夫妻を保護しようと幾分か健闘したが、不可能だと結論づけて。ぐずる蛍を必死に宥めて彦星くんはホテルの外に出ようと出入口まで訪れた。ただそれだけで奇縁にも賢一とフェリティシアとばったり出会ってしまったのである。

 しかも地下から来たせいで 人形 ミクロコスモスパーツの共鳴が起こらず、互いを視界に入れて初めて気づいた体たらくだった。


「あ、あう、あひぉ!?」


 彦星くんは突然の異常事態に奇声をあげた。恐れていたことが起きてしまった。まだダメージも抜けてないのに、保護しなきゃいけない女の子もいるのに、あの執事とまともに二人組と出会ってしまうとは。


「ひ、彦星くん……」


 少女は震える声で彦星くんの手を握る。カバンを持った面長の男と青い目をした外国人の女に対して過剰な怯え方だった。仕方のない話だろう。両親が銅像と化し、他の大人たちも同じく固まってしまい、ひとりぼっちになってしまった少女なのだ。銅像にならず、信頼できるのは彦星くんだけ、という今夜の異常な状況が、彼女の恐怖を煽っている。


「あのお兄さんお姉さんは、怖い人なの?」


 もちろん彦星くんは、彼らは大丈夫、なんて妄言を告げるつもりはない。パーツの共鳴。賢一も、フェリティシアも敵である。オールドローズや式神と同じくどんな悪辣なことをするかわかったものではない。

 だから彦星くんは蛍へ素早く告げた。


「ぼくが突っ込むから外に逃げて、蛍ちゃん」


 ぐちゃぐちゃな口調をしている彦星くんらしからぬ明瞭な指示。その後、彦星くんは蛍から手を離した。茫然としている蛍を置いて、彦星くんはとてとてと賢一たちに向かって駆け足をする。着ぐるみで走るその様は鈍臭くて、コミカルだ。

 賢一は不思議に思う。着ぐるみのままでいることではない。彦星くんが変身能力の持ち主であることは、ルカジャンから聞いてわかっている。


「あ? 着ぐるみヤロー、その女の子――」


 賢一はこの争いの協力者には到底見えない、ただの少女に対して言及しようとして。


「うゆ、うゆ、うゆゆーーーッ!!」


 行動が早かったのは彦星くんだった。彼は身体に残ったダメージも恐怖も全て我慢して、変能を発動した。

 彦星とはわし座の首星アルタイルのことだ。そして、星には数々の名前がある。

 和名、彦星……。


「モォオオオオオオオオ!!!!!」

 中国名、 牽牛 星。

 彦星くんは全長三メートルほどの巨牛に変身した。


「変身ってそこまでできんのか!?」


 そんな物理的攻撃力の高い変身能力があるなら最初から使っていると思っていた賢一は不意を突かれて驚いた。だが、賢一を責めるのも酷だろう。彦星くんが、強い生き物の化けて戦う機会は、今の今まで一切なかったのだ。式神に奇襲でやられたり逃げたり蛍を怖がらせないために着ぐるみのままでいたり……。特に彦星くんは狙ったわけではないのだが、ある種の伏せ札がうまく嵌り、彼は賢一たちに一杯食わせることに成功した。

 漆黒の巨牛は猛スピードでホテルのカウンターへ体当たりをした。花火を打ち上げたような豪快な破砕。景気良く吹き飛ぶカウンター。


「賢一、引きなさい!」


 フェリティシアが後ろから呼びかける。賢一は目を白黒させて慌てて関係者用扉から裏手へ戻った。後ろへひっくり返りそうになるのをフェリティシアに受け止めてもらい、扉の向こう側にいる化け物じみた漆黒の巨大牛と目が合う。


「冗談だろ」

「冗談でしょ」


 賢一とフェリティシアは同時に呟いた。

 
 
 

 再三語るようであるが、変能というものは理不尽で、埒外だ。一人の変能がいるだけで、世界には消えない爪痕が刻まれる。式神はたった一人で、心あるものを奴隷にできる。彦星くんと呼ばれる、この変身する変能は、たった一人で、なんにでもなれるのだ。

 人形師と人形遣いは式神に優位であり、式神は彦星くんに優位であり――彦星くんは人形師と人形遣いに優位だった。


「モォオオオオオオオ!!!!」


 脅しつけるように――遠くへ離れろ! とでも言うように猛々しく鳴く巨牛は扉の枠を破壊しようとガンガン身体を押し付ける。扉以上のサイズであるため入れないが、壊れるのは時間の問題だった。

 フェリティシアは叫んだ。


「賢一! !」

「上じゃなくてか!?」

「この際乱戦の方がいいよ!」


 賢一とフェリティシアは後ろへ振り返ると、階段を駆け下りていった。

 巨牛と化した彦星くんはサイズを三分の一、一メートル程度に変えると扉を潜り抜けて彼らを追う。

 小型化できるなら逃げられる前にしろという話だが、蛍のために賢一たちを遠くへやるのが彼の第一目的だった。大きさで威嚇に、とにかく賢一たちを蛍から引き離す。

 えげつないピンチに陥った人形好き二人と、蛍を巻き込みたくない彦星くんの思惑が合わさり、追いかけっこは地下のセキュリティルーム前まで続く。

 賢一はセキュリティルームドア前で両手を胸の前に沿え。


「わりぃ! 巻き込むぞ! ルカジャン!」


 賢一は三日月をカバンから飛び出させる。三日月の大剣がセキュリティルームのドアを切り裂いた。

 そして賢一とフェリティシアは転がるようにセキュリティルームへ入り込んだ。

 セキュリティルームには画面がずらりと並んでおり、ホテル中の映像を中継していた。

 部屋の片隅には警備員らしき人物が銅像となって転がっている。倉庫も兼任しているのかコップやヤカンなどの備品や掃除用具などがロッカーに収められている。

 そのセキュリティルーム中央の座席には、男が足を組んで座っていた。

 銀縁眼鏡の男だった。その服装はパーティの時と変わって異様だった。青い詰襟に豪奢な白いマントを羽織って、傲慢な態度。

 まるで戯画の中から飛び出してきた王子様のような男――ルカジャン・ゲイリーは監視カメラの画面から目を離すと椅子ごと振り返った。

 ルカジャンは侵入してきた賢一とフェリティシア、そして後からついてくる巨大な牛を見返した。


「来たか」


 二十時。ルカジャンの言葉と共に録音されていたアナウンス音声が流れ始める。予め設定された消灯点灯イベントは未だ続いている。


『皆さま、明かりを落とさせていただきます。足元に気を付けて、その場から動かないようにお願いいたします。では、消灯します』


 監視カメラの画面が一斉に暗闇に切り替わる。ホテル全域の明かりが落ちた証だった。セキュリティルームの明かりは――。


「ショコラ! この部屋も消してくれ!」


 ルカジャンの声と共に、なぜかセキュリティルームの照明も消えた。地下に注ぐ明かりもなし。セキュリティルームは一寸先も見通せない暗闇に包まれた。


「ぐっ」

「ちょ」

「うゆっ!? 何も見えない!?」

「ははは、安心しろ、俺も見えんぞ! だが見えなくても問題ない! ショコラ、ショコラ、愛しいショコラ、キミを傷つけた彼らを――懲らしめるといい! 一人残らず全員だ!」


 賢一はルカジャンの口上を聞いて、咄嗟に薄い糸を周辺に散らした。庭園でフェリティシアを見つけるのに使った手だ。この暗闇に乗じてルカジャンはセキュリティルームへの侵入者を一網打尽にするつもりだ、と賢一は構える。

 全身の神経を尖らせた賢一はすぐに気づく。プチプチプチプチと糸が一斉に切れていく。手応えとしては、 だ。

 物が、物が、物が、多くの物品が宙に浮いている。


(サイコキネシス? いやなんだこれ!?)


 その宙に浮いた物品たち――コップとカップ、箒がその中に混じっているのは確認できたがそれ以外はわからない――は賢一とフェリティシア、ついでに暗闇の中セキュリティルームへ突っ込んできた巨牛こと彦星くんに殺到した。

 賢一はフェリティシアの前に回り込むと三日月を振るって、その物品全てを切り捨てていく。


「どうしたの? なにがあったの!?」


 明るい空間から突如一筋の光も差さぬ暗闇となったため、フェリティシアは一切視界が利かなかった。だが大剣が空気を切り、物品が豪快に断ち切られる音はしっかりと彼女にも聞こえていた。


「物が飛んで来てんだよ!」


 三日月の大剣を、極細な糸が切れるタイミングに合わせて振るっていく。賢一はフェリティシアを守っていた。


「いた、いた、いががががががが!? モォ!?」


 だが彦星くんを守るものは何もない。巨牛の身体へ連続的に物品が衝突する。

 たまらず彦星くんは小さな黒いネズミ科の生き物に変身するとセキュリティルームから逃げ出した。ネズミは夜行性であり、目は悪くともヒゲや体毛といった触覚で環境を敏感に感知し行動することができる。

 バタバタと階段を駆け上がっていく小さな足音を聞き流しながら賢一は油断なく構えた。ルカジャンは賢一たちへ話しかける。


「なんだ、賢一。フェリティシアを連れて逃げないのか?」

「この暗闇でか? 流石に勢い任せで突っ込んだ部屋の構造なんか覚えてねえっつの! ていうかルカジャン、そういう口調だったのか!?」


 賢一のすっとぼけたセリフを耳にしても、暗闇の中で王子様然とした銀縁眼鏡の男は冷酷な態度だ。


「戦わずに済めば越したことはないからな、丁寧に応じたまでだ。だがお前たちはここへ来た。俺を巻き込んだ。ならば良し――私も動こうではないか」


 ルカジャンは椅子から立ち上がった。暗闇の中でマントが翻る。


「俺は妹のためにこの祭りを手中に収めるぞ――兄という生き物はな――妹のためならばなんでもできるのだ」


 ルカジャンは両手を広げた。

 それを合図にしてセキュリティルームに存在した全ての小物が、さらなる勢いを伴って賢一とフェリティシアへ迫った。


 一人で階段を上っていた式神はホテル全体が揺れていることに気づいた。上へ上へと移動していく中で、揺れが大きくなっていく。


「ん、地震にしては揺れがランダムに過ぎるような……?」


 式神は不思議そうに首を傾げる――するとその瞬間、階段の手すりがぐにゃりと曲がって式神を弾き飛ばした。ピンボールのように跳ね上がった式神は階段の踊り場にある窓を破って外へと叩きだされた。

 式神の視界一杯に満月から数日過ぎた月と綺麗な夏の夜空が広がる。


「はれ?」


 式神は間の抜けた声を発しながら、地上七階から真っ逆さまになって庭園へと落ちていった。



 オールドローズは首がもげたまま意識を取り戻した。人間のスケールを超えて戦場をさまよい続けた吸血鬼の直感が、荒事の前兆を察し彼女の心を取り戻したのだろう。

 大砲で吹き飛ばされる寸前の荒れ地のような、空虚さと危険さをオールドローズは目覚めてすぐに感じ取る。

 首だけ吸血鬼は眼球だけで周囲を観察する。異常はすぐに見つかった。褐色のカーペットだ。褐色のカーペットがひとりでに起き上がって、絨毯の端の部分が自身を


「おいおい、なんじゃそりゃ」


 端的に言えば。

 客室前廊下に敷かれていた落ち着いた色彩の絨毯が、蛇のように身体を起き上がらせていた。

 目も鼻もないカーペットの蛇は、床へ転がっているホテルを荒らす敵どもを潰そうと、狙いを定めている。

 その敵であるところのオールドローズは、哂った。

 カーペットが本体である布をしならせ、パァンッ! とオールドローズの頭部があった床を叩きつけた。

 だがその前に吸血鬼は自身の肉体を全て……首と胴体をそれぞれ赤蝙蝠に変えた。数匹の蝙蝠が絨毯と接触したことによって弾け飛び、血の霧と化したが大部分は無事だった。

 赤蝙蝠たちは気を失っている聡と……ついでに常盤しずねに纏わりつき、彼らを抱え上げて羽ばたく。

 赤蝙蝠の塊は窓を割って外へ出るとバタバタと騒がしく羽ばたき続けた。




 彦星くんは痛む全身を押さえながら、カウンターがあった場所からフロントへ飛び出した。人影はない。


(蛍ちゃんはちゃんと逃げたのかなぁ、無事でいてくれるといいんだけど? 恩返しは素敵なァ、サービスが欲しいなー! なー!)


 漆黒の齧歯類はガラス張りの自動ドアから外へ出ようとした。が、あまりにも小さすぎて、自動ドアが反応しない。


「ぐぅ! じゃあこれだ!」


 彦星くんは人間に変身した。漆黒の人影は自動ドアの前に立つ。


(え? なんで開かないの?? 停電? 違うよね? 灯かりが消えてるだけなんじゃないの?)


 困惑する彦星くんは暗闇の中、自動ドアのガラスに映った物に戦慄した。

 彦星くんの背後にはカウンターの残骸が浮遊していた。

 鋭く尖った木片が、金属製のベルが、ペンの尖端が、彦星くんを狙っている。


「うぎゃああああ!!」


 彦星くんは自動ドアを人間の身体で無理やりにぶち破ると、背後から迫ってくる凶器の集合体から全力で逃げ出した。避ける、避ける。カウンターに置かれていただろう名前を書くためのペンが肌を掠る。

 ひぃひぃと怯えながら、外へ、外へ、外へ! ホテルの外へ! だが……。


「門が締まってるぅううう!!」


 驚くべきことに、ホテルショコラガーデンの鉄柵が閉じられていた。閉じられているだけではなく……ガチャン、ガチャンと鉄柵がひとりでに動いている。まるでここから出ようとする何かを食いちぎる練習をしているようだった。


「門がぼくを殺そうとしてるよん!? ……、い、いや、問題ないもんね! 大ジャンプして飛び越えればいいだけ……うひぃ!」


 彦星くんの背筋に冷たいものが走り、彼はもんどりうつように横へ転がった。彦星くんが先ほどまでいた場所にレンガがドン! と落ちた。

 ショコラガーデンホテルと外を隔てるレンガ造りの壁を構成する四角い塊の数々が射出されたのだ。

 慌てて逃げる彦星くんを追って、当たったら重症確実の殺意を練り固めた建築材料がバコバコと地面へ突き刺さっていく。


「ひえぇ……どどどど、どうしようっ……」


 どうすればよいのか。どんな者にでも化けられてるとはいえ、それは無敵を意味しない。ダメージは継続され続ける。この超人的身体能力を持つ身体でも、レンガを喰らったらひとたまりもない。鳥に化けても、すっとんでくる物品に撃ち落とされる。オールドローズに化ける? 吸血鬼的異能も何も再現できない、姿形がそっくりのただの少女になるだけだ。ファンタジックなアレソレは仮装の範囲外だ。

 それに……それに、こんな数々の障害があって、蛍が無事に外に出られるとは思えない。ここにいない以上、他のところにいるのだろう。そして、他のところとは外ではなく、ホテルショコラガーデンの、どこかだ。

 彦星くんは変質者であっても、可愛い女の子を置いてけぼりに逃げ出すことができる鬼畜ではなかった。


「うわーーーーーん!」


 彦星くんは数十分前の蛍のように泣き声をあげながら転身して庭園へ向かった。彦星くんもまたホテルの敷地内で逃げ回るしかない状態に追い込まれたのだった。



「だぁぁぁ! クソ! 何にも見えん! フェリティシア!」

「私も見えないって!」


 賢一とフェリティシアは依然セキュリティルームで飛んでくる物品に追い詰められていた。賢一が操る三日月が斬って斬って斬って斬りまくっても、半分になった椅子や箒やらが、破片となって襲ってくる。

 密室で物量に囲まれ追い詰められていた。

 フェリティシアは叫ぶ。


「見えない! 見えないけどぉ! ……見えるようにはできるよ! ……賢一!」

「ああ!?」


 フェリティシアの声は自信に満ちていた。


「これから私がやることに、私は一切の負い目がない! ……許してとは言わない。これが私の――愛だもの!!」


 フェリティシアはポケットから黄色い小さな木彫り人形を取り出した。それだけで賢一は理解した。

 凄まじいがする。しかも一体分ではない。数十体分の火薬の匂い。そこには確かに業の追及があり、用途があり、意味があった。


「ぐ、ぎっ、がっ……ままならねぇな畜生が!!」


 賢一は承諾も拒否もしなかった。それが答えだった。フェリティシアが放った黄色い人形が爆発――そこから数十体の同じく黄色い木彫り人形が飛び出す。

 その一体が爆発する。爆発の明かりによって視界が一瞬開ける。さらに爆発する。視界が開ける。

 彼女が取り出したるは、人形の可能性を追求する過程によって生まれた 自爆人形 ・・・・たちだった。

 彼女は自爆人形もまた、美しい用途あるものと認めている。認めているのだから作っていて当然だった。

 賢一とフェリティシアは連続する爆発の光を標にしてセキュリティルームを脱出した。爆発四散する人形が照らす一瞬の閃光を導きに、逃げていく人形師と人形遣い。

 それを見てルカジャン・ゲイリーは……ブチ切れた。



「貴様らぁぁぁぁぁぁ!! 愛しき妹たちになんと残酷なことを! 許せん! フェリティシア・ルノアール、貴様は絶対に許さん! 見殺しも、殺しと同じだぞぉおおおおお!!」


 バキバキバキバキィ! とルカジャンを中心としてホテルそのものが振動する。彼の怒りがショコラガーデンへ伝わる。彼は支配しない。彼は強化する。だが、妹の想いが兄に通じるように、兄の想いも妹へ通じる。

 ショコラ・ガーデンは賢一とフェリティシアへ、本気の攻勢を仕掛けた。

 関係者用階段を必死上がる賢一とフェリティシアに手すりや蛍光灯が飛んでくる。フェリティシアの自爆人形がそれらを撃墜し、撃ち漏らしたものを三日月が斬り捨てていく。

 苛烈も苛烈にショコラガーデンそのものが敵となって、人形師と人形遣いへ降り注ぐ。

 背中合わせにジリジリと階段を上り切り、転がるようにフロントへ出る。

 そして賢一とフェリティシアはもフロントを脱出し、外へ出て――他の参加者のように庭園へと逃げ出した。


『次回の消灯は二十一時からとなります。それまでご歓談ください』


 嵐のような大騒ぎと共に、ホテル全域の明かりが灯る。

 大小散らかったフロントが映った監視カメラの画面が点灯する。全ての監視カメラの画面が明るくなった。セキュリティルームで息を荒げていたルカジャンは腕を大きく振ってマントを広げた。


「罪人たちよ! 愛しい妹たちのために犠牲となれ!!」


 ルカジャンはずらりと並んだ画へ向かって腕を伸ばした。


「妹へ世界を献上しろ!!

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